桜木紫乃 / 蛇行する月

 

蛇行する月

蛇行する月

 

 「元始、女性は太陽であった」と言えば、平塚らいてうの筆から発せられた、良妻賢母が唯一の女性像とされた時代に創刊された、女性の女性による女性のための雑誌「青鞜」の創刊の辞の幕開けを飾った、あまりにも有名な女性讃歌であるが、この「蛇行する月」も、結論から言えば、桜木紫乃の筆から発せられた、現代に生きる女性を描いた、あまりにも素晴らしい女性讃歌であり、人間讃歌だ。

「元始、女性は太陽であった」。さて、このあまりにも有名な一文に続く言葉を、皆さまはご存じだろうか。もったいぶっても何も始まらないので続けよう。こうである。

元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。

この文章を読んでもらった後に、改めて前段を読み返すと、この「蛇行する月」という作品は、平塚文脈に則れば、百歩譲って人間賛歌でこそはあれ、決して女性賛歌ではありえないのではなかろうか、そんな疑問が浮かんだとしても、まあ無理もない話ではある。だが断言する。本作は間違いなく、桜木紫乃による女性讃歌であり、人間讃歌だ。

 

帯裏部分に記載された、本作の紹介文を書き写してみよう。

道立湿原高校を卒業したその年の冬、図書部の仲間だった順子から電話がかかってきた。

二十も年上の職人と駆け落ちすると聞き、清美は言葉を失う。

故郷を捨て、極貧の生活を“幸せ”と言う順子に、悩みや孤独を抱え、北の大地でもがきながら生きる元部員たちは、

引き寄せられていく――

北の大地で、傍目から見れば幸せとは言い切れない毎日を懸命に生きる、そんな女性たちの姿が書かれた群像小説。この数年で桜木紫乃作品が獲得してきたパブリックイメージを裏切らない、というか踏み出さない、そんな手堅い作品という前印象を抱かせるには必要にして十分な、見事な文章だ。

 

直木賞受賞時のインタヴューで、彼女がこんなことを語っていたのが、とても印象に残っている。

幸・不幸についてもよく言われるんですが、一生懸命生きている人の口からは幸せとか不幸とか言う言葉を私は聞いたことがない。そこを書いていけたらいいなあと思います。

本作を読もう。一生懸命生きている順子の口からは、幾度となく“幸せ”という言葉が発せられる。読めば誰もが感じるだろう、それは間違いなく、強がりとか自分を鼓舞する言葉とか、そういう類のものではない。順子は間違いなく、一生懸命に生きて、幸せだと感じているのだ。一生懸命生きている人を書いてきた桜木紫乃が、一生懸命生きている人に対して発せられる言葉を聞いてきた桜木紫乃が、それは半ば意図的に言わせた言葉だと受け取るのは、深読みだろうか。そうであってもいいし、そうでなくてもいい。振り返って「青鞜」の姿を確認するにはあまりにも生き方が多様化しすぎた、そんな現代に生きる現代の人間を生きる作家・桜木紫乃の、人間が生きること、それ自体を尊び讃える姿勢には、本作に於いてもいささかの揺らぎもないのだから。もし恥じなければいけないとすれば、そんな桜木紫乃に“幸せ”という言葉をここまで遣わせてしまった、受け手である僕ら読み手の人間観の方なのだろう。

 

平塚らいてうの言葉を、もう一度思い起こしてみよう。

今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。

二十も年上の職人と駆け落ちして極貧の生活を送る順子を「他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月」と形容されたとして反論の言葉がないことは、本作を読めば、まあ疑いようはない。さらに付け加えれば、順子と駆け落ちした職人が「太陽」のような男性だというわけでもない。彼もまた「月」のような男性だ。「月」と「月」が依り合って、相対的に言えば少量の光を輝かせ合いながら、2人は生きる。せめて彼が「太陽」であれば、少なくとも極貧の生活を送ることはなかったのかも知れない。だが、順子は決してらいてうが言うところの「元始の姿」を志向することはない。かといって別の「太陽」の光に依ろうと足掻くこともない。ただ、月のような男性と依り合って生きている。順子とかかわり合う元部員たちそれぞれの視点を通じて時系列と共に進んでいく本作で、むしろ順子と職人の「月」ぶりは加速している感すらある。

最終章で順子とかかわる元部員・直子が、らいてうの言うところの「太陽」のような女性であるのは、桜木紫乃の意図的な構成だと受け取るのは、深読みだろうか。そうであってもいいし、そうでなくてもいい。自らの光によって十分に輝くだけの力を持って生きる、まさに太陽のような女性・直子の目に映る順子は、間違いなく他に依って生きてきたけれど、自らの光によって他の光の輝きが増すことを心底“幸せ”と言い切れる、そんな月だ。そして最後に、太陽は月へ、万感の思いを込めて尋ねるのだ。

「順子、幸せなんだね」と。

「幸せ?」でも「幸せなの?」でもなく、「幸せなんだね」と。本当は尋ねるまでもなく、わかっていたのだろう。それでも、尋ねたのだろう。それが、振り返って「青鞜」の姿を確認するにはあまりにも生き方が多様化しすぎた、そんな現代に、人間と人間が生きるということなんだろう。一生懸命に生きる人間と、一生懸命に生きる人間が、遠ざかったり近づいたりしながら、生きるということなんだろう。

 

太陽は、元始も現代も、決して蛇行しない。現代の月は、ふらふらと蛇行しているようだ。たとえば現代を生きる僕という人間は、太陽を志向する。けれど他の人がどちらを志向するかはわからない。どちらが良いかなんてわからない。ただ言えるのは、本作に於いて、太陽は太陽として一生懸命に生きているし、月は月として一生懸命に生きている。太陽のような女性と太陽のような男性しか存在しなかった元始でもなく、太陽のような男性と月のような女性しか存在しなかった「青鞜」の時代でもない、現代に生きる太陽のような人間と月のような人間が、それぞれに一生懸命に生きている姿が書かれている本作は、そして一生懸命に生きているそれぞれの人間が一生懸命に生きるそれぞれの人間を“幸せ”だと言い切った本作は、何度でも言おう、間違いなく現代を生きる作家・桜木紫乃による女性讃歌であり、人間讃歌だ。