1月にはこんな本も読んでました、こんなことも考えてました

ルポ 若者ホームレス (ちくま新書)

ルポ 若者ホームレス (ちくま新書)


無縁社会」(のレビューはこちら)をかなりの衝撃を持って読了した勢いで以て、その関連本と言える上記2冊も購入、読了。

まず島田裕巳の新書の方は、あくまでも僕の受け止め方だが、論点がずれていた。むしろ著者が意図的にずらしたのかもしれない。むしろ僕の「無縁社会」の受け止め方がずれているのかもしれない。
今、マスメディアが問題提起し、僕が衝撃を持って受け止めた、「無縁社会」の言葉で語られるそれの内実は、一体何なのか。僕なりに無縁社会を段階としてあらわしてみると、こうなる。

1.社会が無縁であること。
     ↓
2.その結果としての「死」が無縁であること。
     ↓
3.その結果としての「死」を受け止める周囲(すなわち社会)が無縁であること。
     ↓
1.に戻っていますね。

一体、内実はこの中のどれなのか。
マスメディアが問題提起したのは上記のどの段階なのか、僕が衝撃を持って受け止めたのは上記のどの段階なのか、島田裕巳が彼なりの答えを提示したのは上記ののどの段階なのか。

そういう意味では、「若者ホームレス」の方がフォーカスが絞れているとは言える。明らかに1の段階の、しかも限られた年齢層にフォーカスを当てた1冊。ただ、正直なところこの程度の主張だったら、2〜3年前の雨宮処凛の著作でお腹一杯だなあと言うことを再確認。まあタイトルにも「ルポ」って入ってる事だし、2〜3年前から改善されていないリアルタイムの社会を知る、と言う意味では手頃な1冊ではある。


少し話は飛ぶんだけれど、「世代」って言葉に対して愛憎半ばするような思いを持っている。
「世代」って言葉には、単純に弱い。「世代」って言葉がタイトルに入った本はとりあえず読んでみたくなるし、「世代」って言葉がタイトルに入った記事はとりあえず読んでみようとは思う。twitterでも、「世代」に関するプチ論壇が、もう毎日のようにTL上に形成されている。
けれど、その本なり記事なりプチ論壇なりを読み終えた時に、その主張に蒙を啓かれた! と素直に思ったことは未だに無いし、きっとこれからも無い。
そもそも、僕の本なり記事なりのチョイスに問題がある可能性は否定しないけれど。近年、「世代」って言葉を使ってる言説が「世代」って言葉を「個人」って言葉の隠れ蓑として使っている割合って、ものすごく大きいんじゃないかな。まんまその言葉じゃなくても、「ジェネレーション」やら「年層」やらも含めれば、なおのこと。

何が言いたいかって、そんな言葉でひとくくりにされるほどに僕と言う人間は小さくないってずーっと思ってるし、そんな言葉で自分の存在を薄めて語るような言説に価値を見出したくはないんだよ、ともずーっと思ってるってこと。

最近の若者が社会の歪みの犠牲者になっているんだとしても、僕は僕だ。
最近の若者が本当にけしからんとしても、僕は僕だ。

僕は僕として称賛されたいし、僕は僕として非難されたい。僕は僕として生きたい。
そう。

I need to be myself.

そんな言葉でデビューしたミュージシャンが、今月、いよいよ2度目のデビューアルバムをリリースしますね。

今更再確認するまでも無いけれど、僕は僕自身でいる必要がある。
そして本当に今更再確認するまでも無いけれど、僕は僕自身でい続けられる。