青春おぼえがき

アクセラレイト

アクセラレイト

キラキラ!

キラキラ!

twitterでは所謂「音楽クラスタ」の皆さんが、2010年のベストアルバムを発表し始めている。シーンのトレンドに目を配るタイプでも積極的に新譜を追いかけるタイプでもない僕は、せいぜいが好きなミュージシャンやバンドの新譜を聴き漏らさないようにするのに精いっぱいで、年に20枚強の新譜が聴ければ良い方。

上記2作品も2010年のリリースではまったく無く、2年前のリリースになるのだけれど、今も全然普通に聴いてる。ひとつ前の日記で大学時代を振り返ってしまって、なおさら聴いてる。大学行ってたのはもう8年前になるけど。

青春という言葉が好きで、まあ今も青臭いところは全然無くなってない。でも、自分の青春時代が既に終わったと言うことは分かっている。
逆説的に言えば、青春の真っ只中にいる人間には、自分が青春の真っ只中にいるなんてことは決して分からないし、青春の真っ只中にいたと思う人間は、青春を終えていると言うことだろう。別に新しい物言いでも何でもない。

「青春時代が夢なんて 後からほのぼの思うこと 青春時代の真ん中は 道に迷っているばかり」

阿久悠が書いていた、まさにその通りだ。

青春を終えた人間が、また青春をやり直すこと。僕はその性質上それは不可能だと思っているし、「遅れてきた青春」や「一生感動、一生青春」と言った言葉もやはりその性質上真実ではないと思っている。

青春とはあくまでも人生の限られた一時期にしか存在しえないものであり、誰もが人生に於いてほぼ同じ時期にしか通過できないにもかかわらず、誰もがその始まりを明確に意識できず、多くはその終わりによってその確かな存在に気付かされる、そういった類のものではないだろうか。

青春を終えた人間が、青春を演じること。完全なそれは無理だとは思うが、全く不可能なこととも言えないだろう。ただ、それをしている人間が100人いたとして、少なくとも90人のそれは寒々しいことこの上ないそれになるだろう。既に通り過ぎた季節を振り返り、そこで得られる果実だけを作為的に抽出しようとするなんて、基本的に傲慢な行為でしかないのだから。

まあ往々にして青春とは無軌道なものであり、それでいて放出を望むエネルギーには満ち溢れていて、当の本人もそのエネルギーの放出する先を把握できていない。そんな人間同士が結びつくからこそ、青春はかろうじて美しいそれになる可能性を見出すんだろう。部屋の中で1人膝を抱えて過ごす10代の日々を否定するつもりもないし僕にもそんな時期があったことを隠すつもりも無いが、残念ながらそれは「青春に似た何か」であって、決して「青春ではない」。

もしも青春を再演する機会に恵まれたなら、こんな風にしたい。簡単に言えば、僕にとって上記の2作はそれである。

溢れんばかりのエネルギーは、何も青春時代の特権ってわけじゃない。僕は信じている。僕のエネルギーが今も増し続けていることを。
無軌道な軌道は確かに青春時代だけの産物だ、そしてそれは美しい。だけど、無軌道な軌道を制御することも、それに負けないくらい美しいことに今の僕が気付けているのは、無軌道な季節を通り過ぎたからこそだ。

「Living Well Is The Best Revenge」

「キラキラしたいんだ いつも僕 這いつくばったって構わない」

無様に生きたことがない人間に、「しっかり生きていくことが1番の復讐」なんて言葉は紡げないだろう。
這いつくばり、そこから立ち上がったことがあるからこそ、「這いつくばったって構わない」なんて言葉が紡げるのだろう。

しっかり生きていきたい。部屋で1人膝を抱えていた僕が羨ましがるように、しっかり。
這いつくばることが分かっていても、キラキラしていたい。部屋で1人膝を抱えていた僕が眩しがるほどに、キラキラ。

確かに青春は終わった。青春を越えて進もう。

もう、軌道が後ろを指し示すことはないから。後ろにあるのが、どれだけ美しく、どれだけ大切な場所であっても。