悪趣味なコミュニケーション

現代文学論争 (筑摩選書)

現代文学論争 (筑摩選書)

タイトル、そして著者。即買いの1冊。1890円と値段はやや張るが、決断を悔いることは100パーセント無いと言い切れる。だからと言って他人にお勧めしようとは思わない。僕がこの人の文章に触れるのが好きなだけ。

そんな機会も無いとは思うけれど、著者に実生活の範囲で接点を持つのは勘弁願いたい、けれどこの人の文章には可能な限りアンテナを張っていたいと思う、小谷野敦とは僕にとってそんな存在。

大学時代に住んでいた学生寮は今思い返せばやはりある種特殊な性質を持っていたところで、そこを塒とした4年間、僕はその全ての期間に渡って何がしかの議論を誰がしかとしていたと言ってもそれが本当に過言にならず、そこで過ごした4年間によって大学に入る前の僕と言う人格を形成していた一部分は1度完膚無きまでに壊され、そしてそれ以前とは比較にならないであろう強度を持って再生された。

そしてその僕と言う人格の根幹を形成している一部分は、学生時代を終えて社会に放り出された僕をある時は助け、ある時は窮地に立たせた。そしてそれは今も変わらず、ある時には僕の本質となり、ある時には僕の灰汁となっている。

議論が、好きだと思う。昔も今も。

議論が浮き彫りにするのは、日常の思索ではなかなか辿り着けない深層意識。表面を上滑りする言葉で議論に挑んでいた18歳の僕が一度完膚無きまでに壊されたように、議論を深めていけば、それはもう深いところを曝け出さざるを得ない。深いところをさらけ出せば、それはもう無傷ではいられない。こちらが深いところを曝け出して傷を負う覚悟で議論に挑めば、それは議論相手も深いところを曝け出して傷を負わざるを得ない。そうやって僕は青春時代と呼べる日々を通して近しい人間に傷付けられてきたし、同じように近しい人間を傷付けてきた。

傷付ける、傷付けられることを(例えそれが無意識下にであったとしても)前提とした関係を形成する覚悟を持った人間しかそこに住み続けることのできない学生寮(そこは本来「塒」としての性質さえ持っていればいい、と言うかそれ以外の性質によってその性質が表出することを妨げることなど、学生寮の本質から考えれば本来はあってはならないはずだ)が如何に異常な性質を持ったところだったか、今は解る。僕がそこに住んでいた頃と今では、寮の性格も大きく変わっていると聞くし、今の僕はそれで良いと思う。今の方が良いと思う。

近しい人間を傷付けたいと思っているわけじゃない。傷付けられたいと願って人に近づくわけじゃない。それなのに気付けば、傷付けることを為し、傷付けられることを誘発している。

今の僕はそれを論理的に説明する言葉を持たないし、今後持てるようになるとも思えない。

僕と言う人間が、そういう性質を持っている。

そうとしか言いようがない。そしてそれを別の視点から見れば、そうでない性質の人間も数多く存在するということで、これに目を向けていなかった頃の僕に掛ける言葉は、いくら探しても「大馬鹿者」以外に見つからない。

議論が好きなのは、昔も今も変わらない。

それはつまり、傷付けることも傷付けられることも厭わないと言うことだ。そういう性質を持ち続けている人間としての最低限の礼儀は、今は持っているつもり。

まずひとつは、無自覚にならないと言うこと。傷付けているという自覚、傷付けられることを誘発しているという自覚。これを持たない人間の議論好きはもう、悪趣味の一言に尽きる。

もうひとつは、それを表出させる時と場を選ぶと言うこと。議論によって人格を破壊されそれでも再生できたような人間は本質的に議論に向いているに決まっていて、そうでない人間を打ち負かす愉楽に浸るのは、何らかの中毒者の行為と何ら変わるところはない。

仕事でもプライベートでもネット上でも、そこに在るのはとどのつまり人と人とのコミュニケーション。議論が僕の考えるコミュニケーションの中で相対的に最良のそれであることは昔も今も変わらないけれど、議論の持つ暴力性には常に注意深くありたい。僕のような人間は、特に。

とまあ僕程度の議論好きな人間が延々と書き連ねてきた自戒を全て予め持ち合わせた上で、それでも議論なしでは生きられないような人間も確かに存在し、賢明な読者の皆様には察しがついているだろうと思われるけれど、小谷野敦は、多分、いや、間違いなく、その種の人間です。そういう人間の書く本を僕のような人間が好きにならない理由はないことは、この冗長な文章に付き合ってくれた皆様にはもうよくお解りでしょう。読み終えた直後の自分が露悪的なほどに攻撃性を表出させることが容易に想像できるので、外出予定の無い休日の夕刻前に読み進めることとします。まかり間違っても仕事前に読むことのないようにと、ここで自分に前もって警鐘を鳴らしておきます。