西村賢太 / どうで死ぬ身の一踊り (and more)

どうで死ぬ身の一踊り (講談社文庫)

どうで死ぬ身の一踊り (講談社文庫)

たとえば筒井康隆は、安易な私小説を厳しく断罪するべく、縦横無尽且つ畢境無比なメタフィクションの世界の奥深くへと旅立っていった訳なのだが、ここまでのレベルの私小説ならば、筒井御大も怒り狂うどころか踊り狂うのではないかと、何故かこの連作小説(聞けば、この作家の作品は凡ての作品が同じテーマで書かれた、ある意味連作小説とのこと)の読後真っ先に僕の頭に浮かんだのは、そんなことだった。

私小説
自然主義文学の輸入時点で生じた大いなる誤解が生んだ、日本文学の一大潮流にして最大の汚点とする向きすらある、日本独自の小説ジャンル。
柳田國男田山花袋の「蒲団」だか「田舎教師」だかを称して「覚えたてのカメラをただ自分に向けただけの芸のない表現」と辛辣極まりない言葉を投げかけたように、その誕生直後から私小説を苦々しく捉える人間は少なからず存在したのは間違いなく、かく言う僕の大学の卒論が筒井康隆を題材にした私小説批判論だったことも、今となっては懐かしい思い出な訳だが、そんなことは本稿には何の関係も無い訳で。
話が散らかり始めたので元に戻すと、本作の素晴らしさは、上の柳田國男に倣って言うならば、「私小説」でありながら「私」以上に「カメラ」の向けられる存在が、確固として存在している点。

藤澤芿造

誰? と言うのが正直な感想、自らの不勉強を恥じ入る。
西村賢太の作品は、凡て、彼への偏愛が立脚点になっている。彼が存在しなければ彼の存在意義などそれこそ虫けら、単なる職無しDV男に過ぎない。
いや、彼への偏愛があったとして、やはり彼は虫けらなのかもしれない。職無しDV男であることに変わりはないのだから。

職無しDV男の心の中では、藤澤芿造は果てしなく美化されていく。それと反比例するように、職無しDV男は果てしなく泥沼に嵌っていく。共に暮らす女を道連れにしながら。

カメラを、もう少し自分に向けてやれよ。
自分が如何に醜いか、気付くだろうに。
自分が如何に面白く読まれているか、気付くだろうに。

……他人の醜態を斯うして面白く読んでいる僕は、どれくらい醜いのかなあ。


以上、2009年2月5日付mixiレビューより全文再掲。


苦役列車

苦役列車

2年前に西村賢太の名前を知って以来の愛読者の1人として、今回の芥川賞受賞は嬉しい限り。本当は今作についても詳細なレビューをしようと思ってたんだけれど、彼の作品の性質を考えると書く作品毎に独立して論じるのは難しく、そして、上記のそれ以上に彼の作品について思いを込めた文章を、今はまだ書けると思えない。

あ、言うまでも無いですが、今作も勿論面白いです。単行本に同時収録の「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」は、彼の作品の中で一番笑った作品です。好みの問題ですが、むしろこっちで受賞しても良かったんじゃないかとすら思います。

例えば「KAGEROU」で初めてハードカバーの小説を読み始めたような人が50万人いるとして、例えその内の何人かでもこの作品に手を伸ばしてみようと思うのならば、それだけで齊藤智裕さんは良い仕事をしたと、僕は思う。
小説でも音楽でもそれ以外のジャンルでも、入り口なんか何処だって良いんじゃないかな。奥で待っている物に、いつか辿り着けるのなら。
いつか、辿り着こうと思い始められるのなら。