book of the year : 2010 次点 ; 島田雅彦 / 悪貨

悪貨 (100周年書き下ろし)

悪貨 (100周年書き下ろし)

新書や何かでは目にしてたが、島田雅彦の小説を読んだのは、多分大学時代以来だ。

何を隠そう高校時代は筒井康隆に次いで愛読してた作家なんで、そのイメージで頁をめくり出したのだが、まず、明らかに文体が変わっていた。文体が変わっていたということはつまり、そこに込められた島田雅彦自身の濃度も変わっていたということで、今作にはもはや、高校生の僕が愛読していたような、恋人とのベッドシーンがピークを迎えたところで突然主人公が自慰行為に走るような、そんな「模造人間」としての一人称は姿を見せない。今作で描かれるのは、三人称。ただ「模造」のディテール、それ自体は相変わらず健在だと言って良い。

凡庸な内面描写から徹底的に距離を置くことを念頭に書かれた初期の傑作群が結果として「模造」としか言いようのない自意識を書いていたように、凡庸な感情をこれでもかと書き連ねる本書からも、浮かんでくるのは「模造」としか言いようのない三人称。
島田雅彦を持ってしてこの単純な人物造形、何かのギャグか? と思って読み進めてみれば、何のことは無い、これはやはりギャグだ。島田雅彦は確信犯だ。最終章まで読み進めて、僕も確信した。

かつては徹底的な一人称で語られていた彼流のエンターテインメントは、それ故に良くも悪くも過剰な自意識の産物として受け取られる傾向があり、それを「きらい」と取るか「愛すべき要素」と取るかでこの作家への付き合い方が決まってきていたと思う(そして僕が後者であったのは言うまでもない)が、先にも述べたように今作に於いてはその「一人称」を周到に回避することに成功している。意外ともとれる程にふんだんに盛り込まれたメロドラマ的要素も、彼にとっては必然の選択だったのだろう。

本作を読み進める中で僕がテーマ的に似通ったものとして思い浮かべたのは村上龍中期の傑作「愛と幻想のファシズム」だが、お勉強作家村上龍がまさに精魂尽きはてる程に吐き出した「渾身作」と比べてもやはり、本作は良くも悪くも「軽薄」である。
変わったのはあくまでも対象物であり、対象物との距離感、対象物へのまなざしの冷やかさは、かつての島田といささかも変わっていない。「作中の」島田雅彦自身の濃度こそ変わっていても、「作者」島田雅彦の濃度は変わっていない。むしろ表面に出てこない分、よりシニカルさを増しているとすら言える。

そう、島田雅彦は資本主義を信じていない。権力を信じていない。
だが、島田雅彦は資本主義に替わるべきものを提示しない。権力に替わるべきものを提示しない。

正確に言えば、島田雅彦の資本主義への対立概念は提示している。権力への対立概念は提示している。

が、それが取って替わる「べきものだという断言」は、これまた周到に回避している。これはかつて福田和也が「作品が進むにつれて作者のやる気が無くなっていくのが手に取るように分かる」と指摘した、そんな作者の資質によるものなのか、はたまた単にまだ島田自身の中でそれが「断言するには至らない段階」だということか。

まあ、この際どちらでも善しとしよう。本書は実用書ではない、あくまでも「小説」だ。
小説とは、答えを提示されてそれを有り難く受け取るものではない。小説とは、問題を僕らに投げかけてそれに対する答えを僕らに考えさせてくれる、少なくとも僕にとってはそんなものだ。

そういう意味で。小説家・島田雅彦はいまだ健在。そしていまだ異才。強くそう感じた1冊。