book of the year : 2010 No.5 ; 橋本治 / リア家の人々

リア家の人々

リア家の人々

特にどこに書いたわけでもないし、どこで言ったわけでもないが、2009年のbook of the yearのNo.1は、それを読了してすぐに決まった。佐藤正午「身の上話」だ。勿論、他にも沢山面白い本に出逢ったのだが、これはちょっとずば抜けていた。「1Q84」のフィーバーがほぼ唯一のそれだった2009年の国内小説で、その主題を「1Q84」よりもずっと深い思考とずっと平易な文章で掘り下げていたのは「身の上話」だったと思うし、「王様のブランチ」で取り上げられたのは知ってるけれど、どう考えてももっと多くの人に読まれ、もっと多くの人に絶賛されて然るべき作品であったという思いは、2011年になっても変わらない。なので今もう一度言う。2009年の国内小説を代表する傑作は、佐藤正午の「身の上話」だ。

村上春樹が深遠な示唆にとどまり、佐藤正午が明確に浮き彫りにしたその主題は、2010年の小説を読み進める上でも大きなそれであったことは言うまでも無く、それは一体何だ。深遠な示唆にとどまったとは言いながら、以下の文章に於いて、村上春樹は意外なほど明確にそれを提示しているので、少し引用しようと思う。(どうでも良いけど何だか最近の僕の文章、村上春樹の引用が多いな)

「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるものは、「そうではなかったかもしれない」現在の姿だ。


(「1Q84 BOOK1」より)

心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。心から外に出ないものごとは、そこに別の世界を作り上げていく。

(「1Q84 BOOK2」より)

「語り」の天才、橋本治は、2010年、実に3作の新刊を上梓している。

橋

「橋」、
失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生 (失われた近代を求めて 1)

失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生 (失われた近代を求めて 1)

「失われた近代を求めて Ⅰ 言文一致体の誕生」、
そして本作「リア家の人々」。本当は刊行順に読了したかったのだが、僕は「失われた〜」「リア家〜」「橋」の順で読むこととなった。だがしかし、やはりと言うべきか、最後に刊行された「リア家〜」が、2009年に佐藤正午村上春樹に通底し、2010年に橋本治にも通底したそれを、最も秀逸に書き上げていた。

選択によって導き出された過去。
選択によって導き出されていく未来。
 
選択の主体は、言うまでも無く自分である。しかし、自分は本当に「能動的に」その選択をしたと言えるのか? 確たる意味に基づいて選択したそれなのか? 確たる理由に基づいて選択したそれなのか?

答えは、いつだってノーなのだ。唯心的に生きている方だと自負する僕だが、この問いにイエスだなんて、さすがにとても言えない。一瞬一瞬が選択の連続、それが人が生きていくことだってこと、いつしか僕は知ってしまったから。

それでも、本作の登場人物に比べれば僕はまだ幸福だ。そう感じられるのは、戦後の高度成長期を舞台にした本作の主人公を中心とした一家は、押し並べて「一瞬一瞬が選択の連続、それが生きていくことだってこと」に、気付いているのか気付いていないのかも疑わしい、それ以前に、そう言った定義付けがまだなされえなかった、そんな時代と境遇に生きた人々だと言うことが、やや説明過多に過ぎるきらいはあるが、言文一致体を完全に自分のものにした橋本治の文体で書かれることにより、白日の下に曝け出されているからだ。

選択と現実。可能性。今ここにいることと、今ここにいなかったかも知れないこと。
1Q84」も「身の上話」も。「クォンタム・ファミリーズ」も「俺俺」も、「『悪』と戦う」も。ここ数年の日本文学の傑作の大半は、思いっきり大きく括れば、どれもこれについて書かれた作品だと思いながら読んでいる。

選択の幸福と不幸について思いを馳せえなかった時代に生きた人々を、選択の幸福と不幸について十分過ぎるほどに思いを馳せる橋本治が描いたこの群像劇は、多分、映像化しても全く面白くない。「ただ、いっさいは過ぎていきます」。この言葉に込められた哀しみを、もしかしたらその発し手以上に読者に伝える力を持った語り手、橋本治によって、この「ただ、いっさいが過ぎていった」、そんな或る時代の或る家族の日々は、かろうじて「物語」として成立しえているのだ。