Kitty,Daisy&Lewis / Smoking In Heaven

Smoking In Heaven [解説付・ボーナストラック収録 / 国内盤] (BRC292)

Smoking In Heaven [解説付・ボーナストラック収録 / 国内盤] (BRC292)

人の行為を語る時に、年齢は大した問題ではない。天才は若くして天才だし、凡才は年を重ねても凡才だ。
キティー・デイジー&ルイスの3人が20歳そこそこであることは、彼らの音楽を語る時に大した問題ではないし、考慮の必要もない。それは、彼らがこの2ndアルバムで鳴らしている音が、ボブ・ディランゼロ年代、つまり彼の60歳代を通じて鳴らしてきた音と相似していることからも、明らかだ。

「ロック」だとか「ロック・ミュージック」だとか、そういう言葉で括られる音楽を好んで聴いているし、そういう言葉で括られる音楽を取り上げている雑誌を好んで読んでいる。「ロック」だとか「ロック・ミュージック」だとか、音楽に何らかの意味を付与しようとする試みとしての音楽を好んで聴いているし、音楽とそれを鳴らした人間の自意識を絡めて語るような文章の載った音楽雑誌を好んで読んでいる。そんな類の音楽を好んで聴いているし、そんな類の雑誌を好んで読んでいる。

彼らが鳴らしている音楽に、意味を付加しても仕方ない。彼らが鳴らしている音楽に、彼らの年齢が重要でないのと同じことだ。彼らの鳴らしている音楽は、彼らが鳴らしている音楽であって、それ以上でもそれ以下でもない。意味の付与など、必要としていない。だからと言って、意味の付与を拒むほどの強い意志があるわけではない。「アンチ○○」とか「ポスト○○」とかでさえない。ただひたすら、音楽として、強く、楽しい。

ボブ・ディランが、ゼロ年代を通じて鳴らしてきた音。それは、「ロック」だとか「ロック・ミュージック」だとか、そういう言葉で括られる音楽「以前」の、音楽。音楽を鳴らす人間の自意識と絡めて語られることを半ば義務付けられて生みだされるような音楽の発生以前の、そんな音楽。それが、意味の付与を拒む強い意志によって、ロック・ミュージシャン、ボブ・ディランに鳴らされてきた音。
例えばブルース。例えばロカビリー。例えばウエスタン。「ロック」だとか「ロック・ミュージック」と言った言葉で括られる範疇からははみ出す音楽を鳴らしてきたのは、その真意を知ることはもちろんできないけれど、彼の選択だったのだろう。その音楽が、それでも結局「ボブ・ディランの詩」によって完成した形で人々の解釈の俎上に載せられることを避けえないことが、ディランにとって幸福なのか不幸なのかは、また別の話だ。

キティー・デイジー&ルイスの3人が20歳そこそこであることは、彼らの音楽を語る時に大した問題ではないし、考慮の必要もない。彼らの幸福は、意味の付与を拒む強い意志を持つ必要も無しに、そんな音楽を鳴らせてしまったことだ。
音楽を鳴らすのが、好きで好きで仕方ないのだろう。伝えたいことが、音楽を鳴らす喜びを上回ることはないのだろう。
例えばスカ、例えばロカビリー。「ロック」だとか「ロック・ミュージック」と言った言葉で括られる範疇からははみ出す音楽を鳴らすのは、彼らにとってごく自然なことなのだろう。

音楽を鳴らす幸福。幸福が鳴らされる音楽。ここにあるのはそれだけだが、彼ら自身が鳴らそうとしたのも、それだけなのだ。
そこで鳴らされている幸福は、極上の形で伝わってくるのだ。それ以上に望むことなど、あるはずもない。