すれ違い続けるべき対話

今日は母の誕生日だが仕事ということで、昨夜弟も入れて3人で母の誕生日祝いに食事に行ってきた。父が亡くなって以来、基本的に予定の無い週末には実家に戻ることにしているので母とは頻繁に顔を合わせているのだが、弟とは結構久々に会った。服飾業界で働いている弟は休日もシフト制で、郵便局勤めで週末休みの僕とはなかなか休日も合わず、まあ休日が合ったところで30歳と26歳の男が頻繁に会う必然性はない。決して仲が悪いことも無いと思うが、男兄弟なんてどこの家庭もこんなもんだろう。

お互いに紆余曲折はあったが、お互いに現在勤めている会社ではそれなりにキャリアを積めている。久々に会えば、成人同士、仕事の話が大半を占める。
このご時世どこの業界もそうだとは思うが、弟が身を置く服飾業界もやはり風波は厳しく、各種手当のカットや元から少ないボーナスのさらなる減額、愛知で1人暮らしするにはギリギリのようだ。
このご時世に限らずどこの業界もそうだとは思うが、20代後半から30代前半なんて社会的にはまだまだ若造の域は出ない。
父譲りなのだろう、僕も弟も鼻っ柱は強い方だと思う。
まず誰よりも自分に厳しくしている自負がそうさせるのだろう、僕も弟も、他人にも厳しい方だと思う。

久々に会う弟の口から飛び出すのは、会社の同僚や上司、果ては会社の体制そのものに対する辛辣な批判、そしてその裏に見てとれるのは、自分の仕事への自信。
僕はそういう人間が好きだ。僕もそういう人間でありたいと思う。
周囲からの励ましや慰めが必ずあると安易に信じ込んだ上で自己憐憫や自己否定を吐き出すような人間にかける言葉など僕は持たないし、この先僕がそういう人間になった時には、周囲の人間は何の躊躇も無く僕のことを見下して欲しい。

年齢ではなく、その精神性と言う意味で、若者しか持ちえないであろうものを26歳の弟はまだ持っていて、それはもしかしたら30歳の僕がもう無くしてしまったものなのかもしれない。そう思ったのは、気がつけば僕がこんな問いを発していたから。
「お前が『ついていきたい』と思えるような人は、職場にはいないのん?」
「んー、いないなあ。今はいないなあ。兄ちゃんはそういう人いるの?」
「いるね。何人もいる」

弟の話を聞いていると、服飾業界と郵便局という業界の差として、業界で働く人々の年齢層の差があるんだなと感じる。26歳、3年目の弟が何人もの「(立場的に)下の人間」と一緒に働ける服飾業界と、30歳、5年目の僕が職場の正社員で未だに2番目に若い郵便局では、同じ正社員とは言ってもそれぞれが見る世界に差が出てくるのは当たり前のことだし、弟が「ついていきたい」と思える人間が「今はいない」のも、僕に「何人もいる」のも、それぞれが見る世界、それぞれを取り巻く環境から生じる差と言う部分が大いにあるんだと思う。

「(『ついていきたい』と思える人間が)何人もいる」
少なくとも今の職場に入ってすぐの頃に、僕の口からこの言葉は出なかったと断言できる。同期と2人、職場中を敵に回した気持ちで仕事に取り組んでいた頃には。
弟が僕のこの言葉を聞いてどう思ったか分からないように、あの頃の僕が今の僕を見たらどう思うのかは分からない。

けれど、今の僕はあの頃の僕の延長線上にしかあり得ない僕だと思うし、あの頃の僕の延長線上にある今の僕のことを、今の僕は全力で肯定する。あの頃の僕以上に、今の僕を肯定する。

少し前のブリヂストンのCMコピー。無性に腹が立ったのを憶えている。腹が立ち過ぎて、コピー自体憶えてしまっている。
「これまでの100年は、これからの100年のためにある」。
違うだろ。
現在から未来を見据えてその可能性に打ち震えるのは自由だけれど、現在から過去を覗き見て、現在の都合に応じた過去として捉え直すのは、違うだろ。
未来のためにある過去など存在しない。その一瞬その一瞬を懸命に生きれば、そんな発想は出てこない。一瞬一瞬が積み重なってできた過去に対して僕のすべきことは、まずは畏怖を持って見つめること、それだけだ。歴史と呼ばれるようなものだろうが、ちっぽけな人間の行為であろうが、その一瞬一瞬の重みにまず畏怖する。学ぶのは、少なくともその後で良い。

兄と弟と言う関係性による必然と言えばそれまでだけれど、弟の発言、まるで少し前の自分を見ているようだった。けれど弟の眼前に広がるのは、可能性として開かれた弟の未来だ。あの頃の僕を見ているような弟の眼前に広がるのは、あの頃の僕の延長線上にある今の僕の姿ではなく、弟の未来だ。
上から目線でかける言葉など、僕には無いのだ。僕の過去が開いた可能性としての現在を伝えることは出来ても、それを現在の弟の可能性に重ね合わせてアドバイスめいた言葉をかけるのは、傲慢以外の何ものでもないのだ。

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

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日の名残り (ハヤカワepi文庫)

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過去と現在との対話は、いつだってすれ違うしかない。カズオ・イシグロの著作が我々に何度でも伝えてくれるのは、その1点だ。
価値観の転換を挟んだ過去と現在の対話は、対話が常に現在からの視点でしか展開しえない以上、常に現在が優位性を帯びる。
現在が、優位性を帯びようとする。
第2次世界大戦と言うファクターを挟んだ価値観同士の対話が軸となった作品である「日の名残り」「遠い山なみの光」の2作品は、その危うさを、その傲慢さを、執拗に丁寧に、読者に伝えてくれる。

僕と弟が生き続ける限り、4歳という年齢差は永遠に変わらない。僕が兄であることも、永遠に変わらない。
これからも、会う度に色んな話をするだろう。僕は注意しよう。決して傲慢にならないように。

過去と現在。現在と未来。
その対話は、いつまでもすれ違い続けるのだろう。それは、悪いことではないだろう。
そしていつか、すれ違いもしなくなるのだろう。