家族になること・家族を作ること part2

be a family.

とは言っても、自然に知らないうちに家族になる、などと言うことがあるはずもなく、その都度我々は選択し、家族になるのである。選択が誤りであったという合意の下に家族関係を解消できる制度も整えられてはいるが、この場合の家族関係が指し示すのは、概ね夫婦としてのそれと見て良い。
つまり、親子関係というものは、よほどの決意とそれに伴う労力を以てしないと解消できるそれではない。夫婦関係に対するそれが簡単なものだなんていうつもりは、更々無いが。

そして、未熟な者同士が支え合い生活を共にしていくことと、未熟な者同士がさらに未熟な存在を生み出す、このふたつの間にある絶望的な距離について思いを馳せるのである。
そう、僕が延々と考え続けているのは、家族になること、というよりはむしろ、家族を作ること、についてなのだ、多分。

Train-Train

Train-Train

「弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく その音が響きわたれば ブルースは加速していく
 見えない自由がほしくて 見えない銃を撃ちまくる 本当の声を聞かせておくれよ」

(「TRAIN-TRAIN」より)

ふっと心に浮かんだ超有名な曲の歌詞を引用してみたが、この歌詞を書いた方からは、こんな文脈で自らの言葉を使ってくれるなと怒られるかも知れない。この曲が大好きな方々の多くにしても同じ思いだろう。この曲が大好きな僕自身、こんな文脈で引用して、冒瀆になっていやしないかと怯えている。だけど。

弱い者達がさらに弱い者を。
未熟な者達がさらに未熟な者を。
このふたつの間に横たわる断絶があるとしても、現在の僕はまだそれを明確に意識することができない。
弱い者の横に弱い者が寄り添うのと、弱い者がそのさらに下層に弱い者を作るのが同じではないように、未熟な者同士が寄り添うのと、未熟な者がそのさらに下層に未熟な者を作るのは違うと思う。

「栄光に向かって走る」途中の存在にとって、家族を作ることがどれほどの喜びとなり得るのだろうか。というか、家族を作る喜びというものは、自身が途中の存在であるという認識もどこかに追いやってくれるような、それほどに大きいものなのか。

「大事な人がいると、どうして自分のことしか考えられなくなるんだろう」

(「優しいおとな」より)

「私が私として生きるためにこの子を利用するようなことは決してすまい」

(「砂の上のあなた」より)


誰もいないから、僕のことすら十分に考えられない。僕のことを考えて考えて頭が狂いそうになるくらいにしてくれる大事な人に、僕はいつか出会うのだろうか。出会えるのだろうか。
僕が僕として生きるために僕以外の誰も必要十分条件としないような僕の器を、僕は間違いなくまだ獲得していない。僕が僕として生きるために、僕は僕自身の器を早く獲得しないといけない。獲得できるのだろうか。

人間が社会的な存在でしかありえない以上、家族を作ることが社会性から逃れうる行為であるはずは、勿論ない。それどころか、考えているうちに、家族を作ること以上に社会的な行為はそうそうないのではないか、とすら思えてきた。
他者との関係性を築くこと、それこそ社会性に他ならないのだから。

家族になること、家族を作ること。
ふたつを明確に区別して考えていても、答えには辿り着かなさそうだ。家族になることの延長線上に家族を作ることがあるかどうかはまだ分からないが、家族になることと家族を作ることは、どうやら近いところに位置する行為ではありそうだ。

そしてそれは少なくとも僕の中では、「社会的行為」と呼ばれるものだ。

昨日の日記で答えを提示しきれなかった問い。
「それでも子どもを望み、家族を望む、その気持ちの理由は、一体何だろう。その気持ちの出どころは、一体どこにあるのだろう」

現時点での僕の答えを提示する。
「社会的存在でしかあり得ない人間の、社会性に対する渇望。それが最も分かりやすく表出したひとつが、家族を望む気持ちであり、子供を望む気持ちである」

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