矜持と敬意

http://togetter.com/li/105723

小説家の樋口毅宏さんが、新刊の公立図書館での貸し出しを刊行後半年間は猶予するよう求めたと言うニュース、一時はYahoo!ニュースのトップにも取り上げられてたので、知っている人も多いかと思う。

僕も地元の市立図書館はよく利用するのだけれど、確かに貸出待ち人数ランキングなんかを見ると、上位を占めるのは大体刊行後間もない新刊で、中にはその人数が100人近かったりするものもある。ちなみに今日も図書館に行ったんだけど、予約数1位は「KAGEROU」だった。

まあ今も定期的に利用してるのだけれど、お金のない学生時代は今以上の頻度で図書館に通ってた。特に中高時代は今とは違って図書館に年端もいかない幼子を連れてくるような親もいなかったんで居心地も良かったし、「図書館で勉強してくる」と言えば親も何も言わなかったんでそれを良いことに、ほぼ毎週末通ってたような気もする。中3の夏休みで、図書館に置いてある筒井康隆の著作を全部借りて読破したことも憶えている。

上記togetter内に於ける、横尾忠則さんの

ぼくの趣味は読書ではなく買書だ。借りて読むのはダメ。買わなければならない。買う行為の中にすでに読む行為が含まれている。買うという肉体を通す行為によって読書を完了させるのだ。

という発言も、今の僕は全面的に肯定するけれど、中高時代の金の無い僕の読書環境も憶えているから、全ての人にそれを強要するわけにはいかないよなあ、とも思うのだ。

話を音楽業界に移すと、この問題に於ける図書館と同じようなポジションに位置づけられるのがレンタルショップになることは、わざわざ言うまでも無く、誰もがわかるだろう。しかし、レンタルショップと図書館には大きな相違点がある。それらを通じて我々利用者が芸術品を手に取ることによって、製作者(クリエーター)の手元に税金が還元されるか否か、だ。

音楽業界に置いてレンタルショップが如何にしてクリエーターに承認されるに至ったかという過程は、昨年末発売の津田大介さんと牧村憲一さんの共著「未来型サバイバル音楽論」の第4章に詳しい。

話を音楽業界から文芸業界に戻して、僕の話をすれば、上記した通り、今も図書館は利用している。平均よりは高い頻度で利用していると言っても多分間違いじゃないだろう。週に1回とは言わなくとも月に2〜3回来館し、1回の来館で単行本、雑誌、新書、合わせて3〜4冊を借りる。1ヶ月単位にすれば、10冊弱を借りていることになる。

中高時代と違うのは、自分の中にルールを設けたこと。既に大好きな作家さんの本は、図書館で借りない。図書館で何となく手に取ったことをきっかけに大好きになった作家さんは、以降刊行される本は、図書館で借りない。僕に僕の大好きな作品を届けてくれる人に対して僕ができる、これは最低限の礼儀。今はそう思ってる。ただ、全ての人にこのルールを提案しようなんて気はない。僕と似たような年齢、経済状況の人におずおずと提案してみる、せいぜいその程度のイメージ。

本にしろ音楽にしろ、それを目に見える形で所持し続けることに対して価値を感じない人間が増えてきているのは多分間違い無いし、それ自体をどうこう言う気も無い。そんなんにお金を使うよりも、オシャレな服や靴、あるいは美味しい料理、はたまた恋人へのプレゼントにお金を使いたい、といった人がいたって、勿論良い。何も買いたくない、とにかく貯金したいってのは少し寂しいけれど。僕みたいに、本棚やCDラックを見てニヤニヤしたい、その為にしこしこコレクションを増やしていくためにお金を使うような人間が否定される理由も無いように。

少し前にも似たようなことを書いたと思うけれど、所謂文化的なものへ手を伸ばす時の入り口は、出来るだけ多く広く浅くあるべきだと思ってる。知らない作家さんの本を読み始めるきっかけとしての図書館の存在を、僕は全然否定しないし、むしろ肯定的に捉えている。どこかにいるであろう中3の時の僕みたいな中3の男子が、どこかの図書館で筒井康隆の蔵書を読破していて欲しいと思う。

どこかにいるであろう中3の男子がどこかの図書館で筒井康隆の蔵書を読破して、それをきっかけに作家を目指す。夢を叶えた彼は、けれど、新刊はほぼ図書館の貸し出しでしか読まれない。そんな状況が数年続き、いつしか彼は専業作家として生活していくことが困難になってしまう。やがて彼は借金苦で身を崩し、存命中に才能に見合った評価を受けることなく世を去った。後世、奇特な文学研究家によって発見された彼の小説はその研究家によって改めて世に問われ、世は彼の小説を「発見」する。彼が世を去って数十年、現在彼は、その生前は終ぞ得ることのなかった大作家としての地位と大作家としての売り上げを誇っている。

……妄言が過ぎましたが、読んでわかる通り上記は極端な例だとしても、作家の生活に思いを馳せさえしなければ、それはそれで文壇のエピソードとして成り立ってしまう。最近の例で言えば、西村賢太が「発見」した藤澤芿造なんか、こうなってもおかしくない。フランツ・カフカがその存命中全く評価を受けることが無かったというのも、あまりに有名な話だ。宮沢賢治もまた然り。

ん、書いているうちに、だんだん自分でも自分の意見が分からなくなってきた。正確に言うなら、自分の意見がまだ固まっていない。さらに精確に言うなら、自分の意見はあるけれど、その根拠が弱い。そのせいで、意見として表明はすれど、意見を提示できるほどの強度を持っていない。

でも、これだけは言う。僕は僕が好きな人に不幸になって欲しくない。僕は、僕の心を揺さぶってくれるような作品を届けてくれる人たちが本当に大好きだ。何なら、僕の心を揺さぶってくれるような作品以上に、それらを作り、届けてくれる人たちが好きだ。僕が大好きなそんな人たちが、その作品を作り上げるのに費やした労力に見合うだけの、俗世に塗れたと言う人がいようとまるで関係ない、対価を得られるような、そんな世界であって欲しい。

これは、心を削って身を削って、矜持を持って作品を届けてくれている、そんな人たちに対する、僕たちの敬意の問題だ。

3.2 追記

「失敗を踏まえたうえで共有すべき美しさとはなにかということを提示したい」菅付雅信『リバティーンズ』休刊を語る - http://www.webdice.jp/dice/detail/2904/

色々、思う。