山内マリコ / ここは退屈迎えに来て

ここは退屈迎えに来て

ここは退屈迎えに来て

来年の2月に、僕の生まれ育った町に木村カエラがツアーで来るらしい。そのニュースを知った時にまず思ったのが「地元もやるじゃん!」じゃなくて「カエラちゃん大丈夫かな?」だった。僕の生まれ育った町はその程度には田舎で、そんな町で僕は高校生までの期間を過ごした。

行くあてはないけど ここには居たくない

幸せになるのさ 誰も知らない 知らないやり方で

高校3年生の初夏にベンジーが歌ったこの言葉は、大学受験、言い換えればあの町を出ていく試験を控えた僕への応援歌にしか聴こえなかった。それくらい、僕はあの町にイライラしていた。センター試験で望外の高得点をたたき出してしまい、あの町からも通学可能&元来の第一志望よりも偏差値的には上のランクの大学を受けるように担任に嘆願された時は、考慮の余地もなく断った。僕にとっての大学受験は、もはや言い換えるまでもなく、あの町を出ていくことだったから。あの町を出ていけない大学受験をするくらいなら、早々に就職して金を稼いだ方が100倍くらいマシだと思っていたから。

あれから14年が経過して、なぜだろう、僕はあの町のすぐ近くの町で生活している。一昨年の名盤、Arcade Fireの「The Suburbs」(和訳すれば「郊外」)が生活圏内のCDショップではとても見つけられないような、そんな郊外の町で。坂本冬美のNHK公開番組収録に中高年がこぞって往復ハガキで応募するような、そんな郊外の町で。あの町で暮らしていた頃の同級生にもちょくちょく会う。すれ違えば気さくに声をかけてくる彼ら彼女らと立ち話をするのは、本当に申し訳ないんだけれど、実は少しだけ苦痛だ。何度か誘いが来た同窓会にも、いまだに出席したことはないし、これから出席することもないと思う。

あの町を出ていき、そして戻ってきた。「一旗揚げてやろう!」なんて思って出ていったわけでは、決してない。だから、夢破れて戻ってきたわけでも、決してない。同窓会に行けば、きっと彼ら彼女らは朝まで付き合ってくれる。小さい子供がいる同級生も、あの町で同居している両親に子供の世話を頼んで、きっと朝まで付き合ってくれる。

今はもうわかってる。あの町は良いところだ。みんなが知ってるやり方でみんなが幸せになっていったあの町が、悪いところのはずがない。誰も知らないやり方で幸せになろうと思ってあの町を出ていって、気が付けば、みんなが知ってるやり方でみんなが幸せになっていったあの町近くに戻ってきている。それなのに今もまだ、誰も知らないやり方で幸せになろうと思ってるのか、僕は。

 

1980年生まれ(同い年!)、略歴によれば地方で育ち大阪(大都会!)の大学へ進んだという作者のデビュー作となる本作は、「地方都市」とすら呼べない、どこまでいっても「地方」でしかない、そんな「あの町」で育った人間の心境が、作者とは同い年で、きっと似たような10代~20代前半を過ごしたであろう僕には、わかりすぎてもう辛くなってくるほどに、機微にわたり連ねられている。「女による女のためのR-18文学賞」の読者賞受賞作が収録されていることや、帯推薦文での山本文緒「ありそうでなかった、まったく新しい“地方ガール”小説です」といった言葉で、いたずらに読者層を狭めないで下さいと、そう頼み込みたくなるほどに、生物学的に言えば間違いなく男性の僕も、夢中で読んだ。何度も読み返した。そしてこれからも、何度も読み返す。

時系列を遡る連作短編集という形をとっている本作に一貫して登場する唯一の人物は、まさに「みんなが知ってるやり方で、みんなと同じように幸せになっていった」、そんな男性だ。時系列を遡る連作短編集という形をとっている本作のそれぞれの主人公たちの目に映る、一貫して変わらない彼の姿。彼の目に、それぞれに誰も知らないやり方で幸せになろうとしている主人公たちの姿は、そしてそんな主人公たちに心底共感してしまった僕の姿は、いったいどんな風に映っているんだろう。

 

そしてはっきりと悟る。わたしは自分の一部を、ここに置いてきたのだ。自分の一部は今もこの町にいて、やっぱりどこにも行っていないのだ。

この悟りを、当たり前のものとして自分の中に閉じ込められる、そんな日が来るまで僕はきっと、この小説を何度も読み返すだろう。そして、そんな日はもう来ないであろうことを知っている僕はきっと、この小説をいつまでも読み返し続けるだろう。