ウルフルズ / ONE MIND

 

たとえば、こういう神がかった歌詞がある。

 

愛の歌が愛を歌うだけで間に合うなら…

 

本当にその通りの人間だから、若い頃に出会ったこの歌詞、この歌詞を書いた人間のことを神の如くに崇め奉っていたんだと思うし、本当にその通りの人間だから、今も愛の歌を愛じゃない言葉で間に合わせようとして、そして、本当に愛を歌いたい相手にさえも、愛想を尽かされていく。

 

だけど神様は気まぐれなのか、それとも残酷なのか。

どう考えても、愛の歌が愛を歌うだけで間に合ってしまう、そんな嘘みたいな夢みたいな人間を、ほんの何人かとはいえ産み落としているようで。

そのほんの何人かの中の1人が、トータス松本ウルフルズのフロントマンだ。

 

だけど神様の気まぐれで産み落とされた側の人間にも、たぶん言い分はあって。

たとえば「僕は電話帳を読み上げるだけで人を泣かせることができる」という言葉を残したマイケル・スタイプ、その声は、彼が望んで手に入れたというわけではもちろんなくて、だから彼が、在籍していたバンドのその活動初期に於いて、「何を歌っているのかわからない」と言われるほどに聴き取りづらい歌唱をしていたことは、その声と無関係では、たぶんない。

 

天与の才とどう折り合いをつけるのかってのは、望んでも望んでも才能を手に入れられない凡人がその平凡さとどう折り合いをつけるのかってのと、ひょっとすると、同じくらいには悩ましい問題なのかもしれない。

 

愛の歌が愛を歌うだけで間に合ってしまう、そんな声を望まずして天から与えられてしまえば、それはそれで重荷なのかも知れない。そりゃ、愛を歌う時には根拠も探すさ、人間だもの。照れや飾りだって入るさ、人間だもの。会えないつらさをそのまま吐き出してもいいんだろうかって逡巡もするさ、人間だもの。

でもさ、愛の歌が愛を歌うだけで間に合ってしまう人間から、愛じゃない言葉で出来た愛の歌を聴かされる、愛の歌が愛の歌を歌うだけでは間に合わない、そんな人間のことを、少しは考えてみてほしいとも思うよ。

残酷なことを言えば、与えられなかった人間の我儘だってことは承知で言えば、与えられた人間には、与えられた人間の使命ってのがあると思うんだよ。愛を歌うだけで間に合ってしまう愛の歌を、存分に聴かせてほしい、と。根拠を求めずとも成立してしまう最高の愛の歌を、存分に聴かせてほしい、と。

 

涙が

きみの事が好きで

その気持ちがあるだけで

涙がとまらへん とまらへん

何か笑けてきた

「とまらへん」

 

誰にも負けないぜ

負けるわけないぜ

おれのハートは燃えているから

あきらめないぜ

泣かないぜ

光を浴びて 君を抱きしめたい

「あついのがすき」

 

一切の照れも飾りも逡巡もない、こんなにも無根拠な愛を、こんなにも強く熱く歌い上げられる、そんなヴォーカリストが、今の日本にいったいどれだけいるんだよって話で。少なくとも僕の中ではそれは宮本浩次トータス松本の2人だけで。そして2人に共通して言えるのが、長年連れ添ってきたバンドで歌う時に、そのヴォーカルは最も輝くってことで。それこそ、それには根拠などいらなくて。

これはわりと誤解を恐れて言うけれど、ファンキーモンキーベイビーズの超上位互換のようなソロヴォーカリストトータス松本も、それはそれで良いのかも知れんけど、やっぱり僕は、3人の凄腕バンドメンバー兼ヘタウマコーラスをバックに歌う、ウルフルズのフロントマン・トータス松本のことが、大好きなんだよ。

 

こんなにも無根拠なラヴソング(フロントマン・トータス松本の真骨頂だろう)と、「ええねん」を髣髴とさせるオープニング曲「あーだこーだそーだ!」に代表される、無根拠な全肯定ソング(バンド・ウルフルズの真骨頂だろう)で溢れた、そんなこの新作。

どこか精彩を欠いて聴こえた前作とその後の活動休止から僕が勝手に感じていたのは、天与の男・トータス松本アイデンティティ・クライシスとでもいうような何かだったけど、少なくとも本作を聴く限り、トータス松本はそれを乗り越えられたんだなあって、これも勝手に判断させてもらう。天与の男としてのジレンマを、長年連れ添ったバンドにもう一度寄り掛かって和らげることにした、そんな美しい話ってことに、これも勝手にさせてもらう。とにかく、7年ぶりに帰ってきたウルフルズの新作を、こんなにもヘビーローテーションできてるってことが、僕はもう、単純に嬉しいんだよ。いろいろわけのわからんことを言ってきたけど、だからって何だってんだって話だよ。結局のところ、言いたいことはそれだけなんだよ。なんだけど、愛の歌が愛を歌うだけで間に合わないからあーだこーだ言いたくなっちゃう人間なのに免じて、もうひとつだけ言わせてほしいんだよ。

 

愛の歌が愛を歌うだけで間に合わないから、愛の歌を愛じゃない言葉で間に合わせようとしている、そんな僕が本作で1番グッと来たのは、一切の照れも飾りも逡巡もない愛の歌、「あついのがすき」。その中でも1番グッと来たのは、やっぱり一切の照れも飾りも逡巡もない、こんな愛の言葉。

 

愛してるよ何してんの

会えないなんてつまんない

 

間に合わないのは知ってるよ。照れるし飾るし逡巡もするよ。

だけど僕も、やっぱり、愛を歌いたいよ。

だから僕も、これから、愛を歌ってみるよ。

転がる岩、僕にも朝よ降れ

こういう判断基準を持っていること自体がそもそも酷い話と言われればまったくその通りとしか言えないんだけれど、頭が良いかそうでないかで人を見てしまうってところがどうしてもあって、とは言ってもさすがにすべての人間をそう見ているわけではないんだけれど、頭が良くない人間が頭が良いかのようにふるまっているのを目にすると、それこそパブロフの犬よりも早いんじゃないかって反応速度で「救い難い人間だな」と思ってしまう。「分を弁えろ」と、お前はいったいどの立場からものを言っているんだって突っ込みが聞こえなくなってるくらいには瞬間湯沸かし器的に、腹が立っているんだと思う。

この傾向が顕著だったのがたぶんいわゆる「多感な時期」で、そりゃ友人も少なかったわ、むしろよくこんな人間が少ないとはいえ今も付き合いを続けてくれる友人に恵まれたなあ、なんてことを思うわけで。そもそも「頭が良いかそうでないか」とか言いながら、10代で実際に出会った同世代の人間の中で、明らかに「自分より頭が良い」って思った人、2人しかいない。改めてこうやって書き起こしてみると、(あくまでも当時のですよ、当時の)自分の性格の悪さに、自分でも引く。

さすがに歳を重ねるとこの傾向も影を潜めてきて、とは言ってもあくまでも「潜めている」に過ぎないので、きっと奥の方ではやっぱりそういう風に人を見ているところがあると思うし、けれどそんな風に人を見てもきっと何ひとつ有益なことはないってのもさすがに歳を重ねてわかってきてはいるので、できれば可及的速やかにこういう視点は殲滅したいと、そう思ってはいる。

 

歳を重ねて、もうひとつ変わってきたというかわかってきたこととして、自分より頭が良いって人、もう掃いて捨てるほどいる。実生活でもそうだし、インターネットはさらにそうだし、そもそも自分、自分で思ってたほど頭が良いわけでもなかった気もする。

歳を重ねて気づいたそういう当たり前の事実と、歳を重ねても捨てきれないおかしな人の見方。このふたつがまた新しい気持ちを導き出してきて、それは、自分より頭が良いと思う人間が、頭が良くないかのようにふるまっているのを目にして、それこそパブロフの犬よりも早いんじゃないかって反応速度で「許し難い人間だ」と思ってしまう気持ち。「分を弁えろ」と、お前はいったいどの立場からものを言っているんだって突っ込みが聞こえなくなってるくらいには瞬間湯沸かし器的に、腹が立っているんだと思う。

この気持ちを知ったのがまだ数年前くらいのことで、こうして改めて書き起こしていても本当に性格の悪さしか浮かび上がってこなくて、さすがに少し自分で自分が嫌になってきつつある。あるんだけれど、書き起こさないで無視しようと思えば無視できるのかもしれないけれど、書き起こしちゃえば少なくとも僕は無視できないし、かつて「どうでもいいことと神の智恵を完全に無視する才能を持っている」と言ったのはストーン・ローゼズジョン・スクワイアだけど、今の僕は僕のこういうところをどうでもいいとは思えないので、無視しない。

 

お前はいったいどの立場からものを言っているんだって突っ込み、それをかき消すくらいの瞬間湯沸かし器的な腹立たしさによっていくらか相殺されるんだけれど、じゃあお前は救われ許される人間だと言えるのか、救われ許される人間であろうとしているのかっていう突っ込み、この音量は歳を重ねるたびに大きくなってきて、無視し続けるにもそろそろ限界が近づいてきてる気がしてる。

 

自分の器を自分で把握しながら、それでも自分の器を諦めないような、そういう生き方をしている人のことが、好きなんだと思う。歳を重ねて、そういう生き方をしている人のことが、好きになってきたんだと思う。自分が今までそういう生き方をしてこなかったことが、してこれなかったことが、わかっているから。

 

誠実だって、時々言ってもらえる。誠実でありたいと思いながら生きている。誠実だって言ってもらえることは、素直に嬉しい。

切実であれればと思いながら生きるようになってきている。切実だってのは、言われた記憶がない。きっと、切実じゃないんだと思う。

 

手を広げれば届く範囲のものを掴む自信もないから、いつしか手を全力では広げなくなった。そんな人間のくせに、そんな人間だから、手を伸ばしても足を伸ばしても届かないようなものを目指して、手も足もバタバタし続けている、そんな姿が、本当にまぶしく映る。

そんな風に足掻いている人をみて気持ちを揺さぶられる、そんな人間にもできる最低限の礼儀として、僕も足掻いてみろよ。

僕も、足掻きたい。周りからいくら無様に見えてもいい。周りが見えなくなるくらいに、何かを心の底から求めて、そんな風に足掻いてみたい。

 

絶対に負けられない戦いがそこにはあるんだとして、絶対に戦わないでも済みそうなルートを探す。絶対に戦わなければ、絶対に負けないから。そんな人間のくせに、そんな人間だから、勝ち負けを考える前にとりあえず戦ってみる、そんな姿を見ると、不意に、よくわからない涙が流れる。

そんな風に戦っている人の美しさを誰よりも見せてもらっている、そんな人間が返せる最低限で最大級の感謝のしるしとして、僕も戦ってみろよ。

僕も、戦いたい。机上の計算とかじゃなく、何かを心の底から手に入れようと、何かに心の底からの思いを伝えようと、そんな風に戦ってみたい。

 

俳優や映画スターには成れない

それどころか 君の前でさえも上手に笑えない

そんな僕に術はないよな

嗚呼・・・

何を間違った?

それさえもわからないんだ

ローリング ローリング

初めから持ってないのに胸が痛んだ

 

もしかしたら、もう間に合わないのかな。

だとしても、今からでも、転がり続けてみたい。

もしかしたら、もう間に合わないのかな。

だとしても、今からでも、切実に生きたんだと、最期は、そう思いながら死にたい。

 

転がる岩、君に朝が降る

転がる岩、君に朝が降る

 

朝礼スピーチ草案シリーズ vol.1: ボブ・ディラン

おはようございます。

 

4月18日の金曜日、名古屋で開催されたボブ・ディランのライヴへ行ってきました。高校生の頃からディランのことが大好きで、4年前の3月に来日ツアーがあった際には「生で見られる機会はこれが最初で最後になるかも知れない」と思い、年度末だったにもかかわらずわがままを言ってお休みを貰い参加したわけですが、御年72歳のディランさん、なんと再び来日してくれたということで、今回も年度初めの4月で申し訳ないとは思いながらも、やっぱりお休みを貰って参加してきちゃいました。仕事をおろそかにしているわけでは決してありませんが、仕事のためだけに生きているわけというでもありません。仕事もしっかり取り組んで、プライベートもしっかり楽しんで、これからもそうやって生きていきたいと思います。

 

仕事のためだけに生きているわけでもありませんし、プライベートのためだけに生きているわけでもありませんので、もしかしたら「集中しろ」とお叱りを受けるかも知れませんが、仕事をしていても時にはプライベートのことを考えてしまいますし、その逆もまた然りです。ディランのライヴ中にとりとめもなく考えていたことを、今朝はお話したいと思います。

 

僕が高校生の頃に初めて知って好きになったディランは、その時点でアルバムを何十枚も発表している、超有名ミュージシャンでした。そして驚くべきことに、その後現在に至るまで、彼はコンスタントにアルバムを発表し続けています。僕が彼を知った後でも、スタジオアルバムだけで6枚です。たとえば同時期にデビューして、同じく最近来日コンサートを行った超有名バンド、ローリング・ストーンズの現時点で最後のスタジオアルバムはもう9年前の作品で、その作品も前作から8年ぶりの発表でした。けれどこれは、ストーンズが目立って寡作なバンドだというわけではありません。たとえば、ディランやストーンズよりも20歳以上年下のケヴィン・シールズというミュージシャンが率いる、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインというバンドがいます。彼らが昨年発表したスタジオアルバムはなんと、前作から22年ぶりとなるそれでした。僕が好んで聴いている音楽の世界では、22年はさすがに次元が違い過ぎるにせよ、このようなことは往々にしてあることです。

何年ぶりの作品であろうとその作品が素晴らしければそれだけの話ですし、何枚目の作品であろうとその作品が素晴らしくなければそれまでの話です。そしてボブ・ディランは、コンスタントに作品を発表し続け、その作品はことごとく素晴らしい。

一介の仕事人として僕は、まずその点においてディランを真似したいです。

毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれてはいませんが、同じような事務を繰り返して嫌になっちゃうこともあります。ですがそんな毎日毎日の中で、コンスタントで正確な事務を、当たり前のように続けていける、そんな仕事人でありたいと思っています。

 

もう少しだけ続けます。

 

コンスタントに作品を発表し続け、その作品はことごとく素晴らしい。そうなると、その作品に収録された曲を演奏するライヴは、もう顔見せ公演でもきっと誰も文句は言わないはずですし、事実僕も「生で見られるのはこれが最後かもしれない」とか思いながら参加しています。歌を聴きたいというよりも、高校生の頃からのヒーローを生で見たいという、その欲望の方が強くあるわけです。欲望といえば、ディランの「欲望」というアルバム、僕が生まれるよりも前に発表されていますが、今聴いても、このアルバムのディランの色気は凄いです。

……話が逸れました。何でしたっけ。ライヴは顔見せでもう構わないという、ファンの心境でした。

ディランは、もう10年以上前から世界中を回り続けるライヴツアーを続けています。スタジオアルバムの発表と時期を合わせて全国ツアーをするという音楽業界の慣習には目もくれず、延々といつ終わるともしれないツアー(そしていつの頃からか、彼のツアーは「ネヴァーエンディングツアー」と呼ばれるようになりました)を続け、その間に、いったいいつ制作する時間をとったんだ? というほどにコンスタントなペースで、スタジオアルバムを発表し続けています。アルバムとツアーの相関関係が、他のミュージシャンとはあまりに違い過ぎて、よくわからないことになっているのです。

彼の現時点での最新スタジオアルバムの収録曲も、今回のライヴで何曲か演奏されました。ライヴ前にアルバムで聴き込んできた曲を生で聴いてみて、その響きや聴こえ方の微妙な違いを楽しむ、まあこれが一般的なライヴの楽しみ方かとは思うのですが、彼の場合、曲が始まってしばらくしないとそれがどの曲かということがわかりません。演奏も歌も、アルバムで聴いてきたそれとはもはやかけ離れたものになっているのです。アルバムに収録したヴァージョンが完成形だというわけでは、まるでないのです。

じゃあ、ライヴで聴いたヴァージョンが完成形なのかといえば、それも違う。4年前と今回のライヴで演奏した曲、何曲かは被っていたものがありました。しかし、間違いなく同じタイトルの曲を演奏しているのに、4年前に聴いたおぼえがまったくない。演奏も歌も、4年前に聴いたそれとももはやかけ離れたものになっているのです。ライヴで生披露したヴァージョンが完成形だというわけでも、まるでないのです。

 

じゃあ、彼の完成形は、いったいどこにあるのか。たぶん、そんなものはないのです。あまりにも有名な彼の曲に倣って言えば、そんなものは、風に吹かれているのです。

これを足したら、ここを削ったら、ここをこう変えたら、もっといいものになるかも知れない。もっと面白いものになるかも知れない。そんな風に考えながら、毎日毎日、同じタイトルの歌の形を、少しずつ、時には大きく、変え続けているのかなあ。そんな風に思います。そしてそれは、彼の思うとおりに、いいものに、面白いものになるのかも知れません。中には「前の方が良かった」と言われることも、あるのかも知れません。だけど、彼がとどまっていないことだけは確かです。あまりにも有名な彼の曲に倣って言えば、転がる石のようである、そのことだけは確かです。

一介の仕事人として僕は、このディランの姿にたまらなく惹かれます。

僕らの仕事内容は、事務ばかりではありません。営業もあります。極端に言えば、事務は機械が相手です。機械操作を間違えなければ、コンスタントに正確な事務を、当たり前に続けていくことはできます。けれど、営業の相手は機械ではありません。人間です。人間と人間のやり取りに、完成形はきっとありません。昨日までの営業が上手くいっている人もいれば、そうでない人もいます。だけど今日からの営業で相手をするお客さまは、昨日までお話をしてきたお客さまとは違うお客さまです。それは確かです。昨日までの営業を思い出して、今日からここを少しこう変えてみようと、そうすることは、誰にでもできることです。それをするかしないか、それだけのことです。僕は、それをする人でありたいなあと思います。「前の方が良かった」と言われることも、もしかしたらあるかも知れません。そうなったら、そうなった時にまた考えます。今日の僕がこれが1番良いと思う方法を探す、とにかくそれを続けていきたいなあということです。

 

というわけで、週末の夜にプライベートを楽しみながら、そんなこともつらつらと考えていました。それでは今日も1日、よろしくお願いいたします。

 


Bob Dylan - Tangled Up In Blue - YouTube
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