綿矢りさ / 勝手にふるえてろ

作家が紡ぐのは、物語か、はたまた、ふるえる琴線の、凡人には紡げないその細部か。

乱暴にこの二者から択一するなら綿矢りさは完全に後者であり、早々にその超絶が絶頂を極めたのが、あの「蹴りたい背中」だ。「さびしさは鳴る」で始まり「はく息がふるえた」で終わるあの作品を、21世紀日本文学が達したひとつの頂と位置付けることに、僕は何の躊躇もない。

ただこのタイプの作家が難しいのは、自らがどれだけの高みに登ったとてそれが文壇を引っ張っていくようなポジションに転化することには決してなり得ず、あくまでもひとりの突然変異的天才としてしか位置づけられないというところだろう。芥川賞を同時受賞した金原ひとみがその村上龍の正当後継者ポジションの足場をしっかり固めながら順調に作品を刊行していくのとは対照的に、3年に1作というややスローなペースでの作家活動にとどまっているのも、彼女の特異性と全く無関係ではないのではないか。

そしてその前作「夢を与える」ではっきりと停滞を感じさせた天才は、この最新作で、とりあえずまだ留保付きではあるが、一定の復活を果たしたと言って良い。

「とどきますか、とどきません」「でも疲れたな、まず首が疲れた」「足りますか、足りません」

冒頭3ページに渡るモノローグが、まずは秀逸だ。本音と言うにもあけすけ過ぎる、零れ落ちる感性。

取り上げられるテーマは、まあ言えば角田光代「愛がなんだ」と丸被り。ストーリーテラーとしての技量では、完全に角田さんが上。でも、綿矢さんに求めているのはストーリーじゃないから、そんな事は気にならない。切れ味の鋭すぎるその言葉で、僕のカビの生えた心を抉ってくれさえすればそれで良い。ふるえる心を、それこそ「勝手にふるえてろ」と一刀両断してくれることをこそ、僕は彼女の作品に欲している。わけのわからない成熟とか取って付けたような成長なんて、これっぽっちも求めていない。

もっと言おう、彼女の小説にはテーマも求めていない。ある感覚、ある感情、ある震え。それさえヴィヴィッドに書いてくれれば、もうそれがこの上ない至福。

「本当に好きな人と結婚しなきゃだめですか?」

新聞広告で彼女自身が問いかけた問いに対してなんて、知らねえよとしか返せない。それこそ「勝手に考えてろ」。

勝手に考えていて欲しい答えを、彼女なりに提示し始める後半になって露骨に失速したのは、彼女の作家性を鑑みれば至極まっとうな展開で、だけれどもこれからの作家としての人生を考えれば彼女がそっちに手を伸ばしたくなる気持ちも分かる。天与の才だけで成し遂げた成功が長続きする可能性が低い事が自明な事くらい、彼女には見え過ぎるほど見えている訳で、まっとうに「物語」を紡ぐ作家としてのキャリアを描くことに、ノーを突きつける資格は誰にも無い。彼女自身以外、誰にも無い。

しかし、今作中盤までの文章の冴えは間違いなく本物であり、しかも彼女は既に一度それを「失っている」。失ったものをふたたび手に入れるのは多分、才能だけで出来ることではない。才能だけでそうなってしまったわけでもないだろう。現在の彼女は、作家としての自分の最大の才能に、間違いなく「気付いている」。

その才能と、如何にして折り合いをつけるか。ひたすらに、おもむくままに、才能を煥発させるか。それとも、才能だけでは辿り着けない、成熟という領域を求めて彷徨うか。そう、才能だけでは辿り着けない領域も確かにあり、才能を持つ人間にとってそこが容易く辿り着ける領域だなんてことは、全く以て、無い。

次作は間違いなく読もう。次々作も読もう。その次も、そのまた次も。
綿矢りさという唯一無二の天才の行き着く果てを、彼女の遥か後方下方から、僕も仰ぎ見たい。

勝手にふるえてろ

勝手にふるえてろ