堀江敏幸 / なずな

なずな

なずな

小説を読んでいる時間の中にしか流れない時間というものが、間違いなく、ある。その時間の中に少しでも長く浸っていたいと思うような、そんな時間のことだ。
その時間の中に少しでも長く浸っていたいと思うような、そんな時間を描く小説の中に流れる、時間。堀江敏幸の新刊「なずな」が紡ぐ時間は、間違いなく、そんな時間だ。

本作のタイトルにもなっている赤ん坊「なずな」と、様々な事情が絡んで彼女の育児を主に引き受けることになった主人公は、この紹介文からも明らかな如くに、血縁上は親子ではない。主人公を除けば、作中で「なずな」と直に触れ合う人物のすべてが、彼女との血縁関係を持たない。
しかし、どうだろう。本作を読んでいて、それを意識するような場面にはついぞめぐりあうことの無かった僕は、はたして読みが浅いのだろうか? そう言われれば別に否定はしないけれど、けれどそれは、決してそれだけが理由ではない。

主人公含め、全ての登場人物の時間の中に、ごく自然に、「なずな」がいる。主人公と、主人公の大切な人の間に、主人公と、主人公の大切な人たちの間に、流れる時間がある。そんな時間が、幾度も幾度ももたらされる。「なずな」を介して、もたらされる。ごく自然に、もたらされる。作中に描かれる場面の全てに登場する、と言うわけでは勿論ない、赤ん坊の「なずな」を、作中に登場する人物が過ごす時間の全てから、ごく自然に、感じ取れる。彼らの過ごす時間の全てから、読者は「なずな」の存在を、「なずな」の息吹を、感じ取れる。

400頁強を費やした、長編と言って良い分量を持つ本作品の中で流れる実時間は、おおよそ2ヶ月。
2ヶ月の間に、赤ん坊は、別人、とまでは言わないが、本当に、どんどん育つ。2ヶ月の間に、お年寄りは、天に召される。2ヶ月の間に、赤ん坊がどんどん育つのを目の当たりにしながら、お年寄りが天に召された報せを受ける。
赤ん坊に流れた時間と、お年寄りに流れた時間と、主人公に流れた時間がある。果たしてそれは、同じものなのか、違うものなのか。
とにかく、時間が流れる。
とにかく、時間は流れる。

同じ時間を過ごしていても、同じように時間が流れているわけでは、もしかしたらないのかも。けれど、同じように時間が流れていなくても、同じ時間を過ごしたことは、確かで。
「なずな」と共に過ごした彼らの時間は、きっとそんな時間。
「なずな」と共に過ごした彼らの時間を描いた素敵な小説に浸った、僕の時間も、きっと。