朝倉かすみ / てらさふ

 

てらさふ

てらさふ

 

ここではないどこかへと 胸を焦がすよ

無邪気な季節を過ぎ 今誰もが戦士達

大好きだったこの歌が街でテレビで流れていたのは、もう15年も前のことだ。こんな風に歌えるのはきっと、無邪気な季節を無邪気に走り抜けられる、無邪気な時代の無邪気な戦士だったからだ。それが良いとかそれが悪いって言っているんじゃない、それが事実なんだろうと言っているだけだ。

たとえば僕の名前を検索キーに打ち込めば、僕のツイッターと僕のFacebookが出てきて、それで終わりだ。あえて本名を出してそれらをする必要もないと言えばないのだけれど、あえて本名を隠してそれらをする必要も感じないくらいの自意識を育めたのは、多感な季節を無邪気に過ごせる時代にも恵まれていたんだろう。本作を読み終えた後、僕はそう思わざるを得なかった。

 

主人公コンビの1人である堂上弥子が、自分のWikipediaを自分で編纂している、そんな描写から始まる本作「てらさふ」は、この2010年代の日本を舞台に、多感な10代コンビが多感な10代を脇目も振らず駆け抜ける、そんな爽快感に溢れた傑作、ではない。しかしそれは、本作が傑作ではないという意味では、もちろんない。本作は、この2010年代の日本を舞台に、多感な10代コンビが多感な10代を脇目を振りまくりながら、走り、止まり、また歩き出す、そんな滑稽さと悲しみに塗れた、現代の傑作だ。

 

無邪気な10代を生きた僕と、脇目しか見えない10代を生きた弥子、2人にも、通じていたものはあった。読書感想文コンクールで入賞するコツ。それくらいは、あの頃の僕にも何となくわかっていた。けれど、無邪気な10代を生きた僕は、この程度の賞を狙って取っているような自分には才能のなさしか感じなかったけれど、脇目しか見えない10代を生きた弥子は、どうも違ったようだ。この程度の賞を狙って取ることを、紛い物としての才能の証明と受け取った、そこから、弥子と本作のもう1人の主人公であるニコ、2人の疾走が始まる。

自分の欠落と自分の過剰さを自分で把握しきった(と少なくとも自分では思っていた)がゆえに自分が「本物の紛い物」であると自覚するに至った弥子と、自分の欠落と自分の過剰さを自分ではほとんど把握できていない(しかしそれは、思春期の入り口に於いてごく自然なことだろう)ニコ。2人が手を組んで「ここではないどこか」を目指して疾走した10代の軌跡は、具体的手段についてはここでは触れないが、今を騒がせる佐村河内守小保方晴子、2人の大人を足してもお釣りがくるほどに、汚くそして巧妙だ。そして、取った手段が2人の大人よりもずっと汚く巧妙である一方で、弥子の心の奥底から湧き上がる欲求は、2人の大人がたぶん唖然とするほどに、幼く、無邪気だ。

なにごとかを成し遂げる

読書感想文コンクールという最初の入口は、それを何となく選んだニコにとってももちろん、弥子にとっても必然ではなかった。音楽の世界でも科学の世界でも、たぶん何でもよかったのだ。「ここではないどこかへ」という、本当に、その言葉以上でも以下でもなかったのだ。

高校の、いや中学校の進路相談でもこんなことを言ったら担任に笑われそうな、それほどに幼すぎて無邪気すぎる欲求を、脇目しか見えないような季節を過ごしながら、それでも捨てることをしなかった、捨てることができなかった、そんな弥子の姿を、少なくとも僕は嗤えなかった。

 

たとえば佐村河内と小保方、そのサクセスストーリーは、ビジネスパートナーが良心の呵責に耐えかねたのを発端に暗転していった。弥子のそれもそうだったなら、どんなに良かったろう。もちろん、それも理由のひとつではあった。しかし、それは理由のすべてではなかった。ニコの10代が、10代特有の輝きに包まれていくことによって、弥子は、自分で把握していたがゆえに目を向けることをしなかった、目を背けていた自分の姿を見せられていく。

ひとは、みんな、つなぎ役だ。ほとんどの人は、「なくてはならない存在ともいえるし、なければないでかまわない存在」ともいえる。(中略)テレビや、映画や、歌や、ダンスや、絵や、小説や、写真のように、「なければずいぶんつまらないが、なくてもさして不自由はないもの」も同じ。大半は、本物が出てくるまでのつなぎ役だ。

10代が多感な時期であるとされる理由の、その大部分を占めるであろう事象によって、大きな努力もなしにそれを手に入れてしまうニコと、それを手に入れるために相当の努力を要する弥子は、最終的に引き裂かれていった。「なければないでかまわない存在」だと、のちに振り返ればそう笑って言える存在を「なくてはならない存在」だと、多くの人間が初めてそう思うのが、そう思ってしまうのが、ほかでもない、10代という季節なのだ。10代以前の無邪気さを捨てなかったかわりに、10代の無邪気さには目もくれないで疾走した、その「ここではないどこかへ」続いていたレールを、最終的に10代の無邪気さによって外される、そんな弥子の姿を、少なくとも僕は嗤えなかった。

 

たびたび佐村河内と小保方の名前を出してきたことからもわかるかも知れないが、初出が2012年から2013年の連載であったことからして完璧に偶然であることは間違いないにしても、本作はまず、「今読む面白さ」に圧倒的に溢れている。けれど、それだけで本作の面白さが語り切れるというわけでは、もちろんない。その理由をひとつだけ記して、この記事を終えようと思う。

何とも言えない余韻を残して終わる本作を読み終えた後の僕の脳裏に真っ先に思い浮かんできたのは、80年代から90年代を疾走した岡崎京子の傑作「ヘルタースケルター」の主人公、りりこの姿だった。