樋口毅宏 / テロルのすべて

テロルのすべて

テロルのすべて

全著作をほぼリアルタイムで読んでいる作家さんの1人に、白石一文さんがいる。その白石さんがツイッターでしばしば言及、称賛しているのが、この作品の作者である樋口毅宏さんである。彼の作品もいつか読むのだろう。彼の作品をいつ読むのだろう。ここ1、2年ほどそんな風に思い続けていた樋口さんの本を、ついに読んだ。

話は突然飛ぶけれど、「バクマン」の最新14巻に出てくる「七峰透」。彼を指して主人公の真城最高高木秋人はこう言う。

七峰くんの作品はワンアイディアなんだよな
嘘をつくと殺される 緊張するとオナラが出る そのシンプルなワンアイディア設定で話を膨らませる作り つまりそのワンアイディアが秀逸

これに倣えば、樋口さんのこの作品もワンアイディアと言えば言える。ただそのワンアイディアは、「秀逸」とかそんな類の言葉で表せるレベルではない。というか、もしかしたら「秀逸」ではないのかも知れない。けれど、このワンアイディアを思いつく人間は星の数ほどいるだろうけれど、このワンアイディアをここまで研ぎ澄まそうとした人間は片手で数えてもお釣りがくるほどしかいないだろう。このシンプルなワンアイディアで話を膨らませる、というより、ワンアイディアによって、本作は限界まで研ぎ澄まされている。その意味では七峰くんの方法論と樋口さんのそれは一見似通っているようで、その実は真逆と言えるのかもしれない。
ああ、ワンアイディアの種類は違えど、このレベルまで研ぎ澄まされた作品を数年前に僕は読んでいる。ほかでもない白石さんの「この世の全部を敵に回して」だ。

当時のレビュー(まだはてなを始める前だったのでmixiだけど)で、僕はこう書いている。

本書を「小説」と呼ぶには、さすがに作品の構成に問題があり過ぎる。敢えて言うならば、ある種の「教本」だろう。「教本」というからには、何かを教えてくれる本でなければならないが、本書は何を教えてくれるのか。
それは、「希望」。

「この世の全部を敵に回して」は、誤解を恐れずに言えば、小説家・白石一文さんの作品の中で唯一、「小説」の体を成していない。当時の白石さんには、「小説」としての体裁よりも優先すべきものがあったのだろう。そして僕は「この世の全部を敵に回して」を、大切な1冊として今でも何度か読み返す。
これまで様々な媒体で目にしてきた小説家・樋口毅宏さんに対する評価から考えると、この「テロルのすべて」も、樋口さんのバイオグラフィの中では異色作に位置づけられる作品となるのだろう。作品を貫く意思の純度は、間違いなく高い。高過ぎると言っても良い。その意思の純度の高さによって、作品を小説たらしめているいくつかの要素はややおざなりにされている感もあるけれど。それはきっと、承知の上なのだろう。

このご時世に、このテーマ、間違ってるかもしれません。それでも、読んでほしい。震えてほしい。

樋口さんが本作に込めた願いは、僕には伝わった。ここ数年で最も強い意思の力を、僕は受け取った。

「この世の全部を敵に回して」の帯にはこう書かれていた。「二十一世紀の『人間失格』」。
「テロルのすべて」には、それこそ「二十一世紀の『罪と罰』」になりうる可能性があった。そして多分樋口さんは近い将来、そう言われる作品を書くだろう。そしてこの2011年に樋口さんはその可能性を捨てて、「二十一世紀の『地下室の手記』」を、書いたのだ。