朝礼スピーチ草案シリーズ vol.1: ボブ・ディラン

おはようございます。

 

4月18日の金曜日、名古屋で開催されたボブ・ディランのライヴへ行ってきました。高校生の頃からディランのことが大好きで、4年前の3月に来日ツアーがあった際には「生で見られる機会はこれが最初で最後になるかも知れない」と思い、年度末だったにもかかわらずわがままを言ってお休みを貰い参加したわけですが、御年72歳のディランさん、なんと再び来日してくれたということで、今回も年度初めの4月で申し訳ないとは思いながらも、やっぱりお休みを貰って参加してきちゃいました。仕事をおろそかにしているわけでは決してありませんが、仕事のためだけに生きているわけというでもありません。仕事もしっかり取り組んで、プライベートもしっかり楽しんで、これからもそうやって生きていきたいと思います。

 

仕事のためだけに生きているわけでもありませんし、プライベートのためだけに生きているわけでもありませんので、もしかしたら「集中しろ」とお叱りを受けるかも知れませんが、仕事をしていても時にはプライベートのことを考えてしまいますし、その逆もまた然りです。ディランのライヴ中にとりとめもなく考えていたことを、今朝はお話したいと思います。

 

僕が高校生の頃に初めて知って好きになったディランは、その時点でアルバムを何十枚も発表している、超有名ミュージシャンでした。そして驚くべきことに、その後現在に至るまで、彼はコンスタントにアルバムを発表し続けています。僕が彼を知った後でも、スタジオアルバムだけで6枚です。たとえば同時期にデビューして、同じく最近来日コンサートを行った超有名バンド、ローリング・ストーンズの現時点で最後のスタジオアルバムはもう9年前の作品で、その作品も前作から8年ぶりの発表でした。けれどこれは、ストーンズが目立って寡作なバンドだというわけではありません。たとえば、ディランやストーンズよりも20歳以上年下のケヴィン・シールズというミュージシャンが率いる、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインというバンドがいます。彼らが昨年発表したスタジオアルバムはなんと、前作から22年ぶりとなるそれでした。僕が好んで聴いている音楽の世界では、22年はさすがに次元が違い過ぎるにせよ、このようなことは往々にしてあることです。

何年ぶりの作品であろうとその作品が素晴らしければそれだけの話ですし、何枚目の作品であろうとその作品が素晴らしくなければそれまでの話です。そしてボブ・ディランは、コンスタントに作品を発表し続け、その作品はことごとく素晴らしい。

一介の仕事人として僕は、まずその点においてディランを真似したいです。

毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれてはいませんが、同じような事務を繰り返して嫌になっちゃうこともあります。ですがそんな毎日毎日の中で、コンスタントで正確な事務を、当たり前のように続けていける、そんな仕事人でありたいと思っています。

 

もう少しだけ続けます。

 

コンスタントに作品を発表し続け、その作品はことごとく素晴らしい。そうなると、その作品に収録された曲を演奏するライヴは、もう顔見せ公演でもきっと誰も文句は言わないはずですし、事実僕も「生で見られるのはこれが最後かもしれない」とか思いながら参加しています。歌を聴きたいというよりも、高校生の頃からのヒーローを生で見たいという、その欲望の方が強くあるわけです。欲望といえば、ディランの「欲望」というアルバム、僕が生まれるよりも前に発表されていますが、今聴いても、このアルバムのディランの色気は凄いです。

……話が逸れました。何でしたっけ。ライヴは顔見せでもう構わないという、ファンの心境でした。

ディランは、もう10年以上前から世界中を回り続けるライヴツアーを続けています。スタジオアルバムの発表と時期を合わせて全国ツアーをするという音楽業界の慣習には目もくれず、延々といつ終わるともしれないツアー(そしていつの頃からか、彼のツアーは「ネヴァーエンディングツアー」と呼ばれるようになりました)を続け、その間に、いったいいつ制作する時間をとったんだ? というほどにコンスタントなペースで、スタジオアルバムを発表し続けています。アルバムとツアーの相関関係が、他のミュージシャンとはあまりに違い過ぎて、よくわからないことになっているのです。

彼の現時点での最新スタジオアルバムの収録曲も、今回のライヴで何曲か演奏されました。ライヴ前にアルバムで聴き込んできた曲を生で聴いてみて、その響きや聴こえ方の微妙な違いを楽しむ、まあこれが一般的なライヴの楽しみ方かとは思うのですが、彼の場合、曲が始まってしばらくしないとそれがどの曲かということがわかりません。演奏も歌も、アルバムで聴いてきたそれとはもはやかけ離れたものになっているのです。アルバムに収録したヴァージョンが完成形だというわけでは、まるでないのです。

じゃあ、ライヴで聴いたヴァージョンが完成形なのかといえば、それも違う。4年前と今回のライヴで演奏した曲、何曲かは被っていたものがありました。しかし、間違いなく同じタイトルの曲を演奏しているのに、4年前に聴いたおぼえがまったくない。演奏も歌も、4年前に聴いたそれとももはやかけ離れたものになっているのです。ライヴで生披露したヴァージョンが完成形だというわけでも、まるでないのです。

 

じゃあ、彼の完成形は、いったいどこにあるのか。たぶん、そんなものはないのです。あまりにも有名な彼の曲に倣って言えば、そんなものは、風に吹かれているのです。

これを足したら、ここを削ったら、ここをこう変えたら、もっといいものになるかも知れない。もっと面白いものになるかも知れない。そんな風に考えながら、毎日毎日、同じタイトルの歌の形を、少しずつ、時には大きく、変え続けているのかなあ。そんな風に思います。そしてそれは、彼の思うとおりに、いいものに、面白いものになるのかも知れません。中には「前の方が良かった」と言われることも、あるのかも知れません。だけど、彼がとどまっていないことだけは確かです。あまりにも有名な彼の曲に倣って言えば、転がる石のようである、そのことだけは確かです。

一介の仕事人として僕は、このディランの姿にたまらなく惹かれます。

僕らの仕事内容は、事務ばかりではありません。営業もあります。極端に言えば、事務は機械が相手です。機械操作を間違えなければ、コンスタントに正確な事務を、当たり前に続けていくことはできます。けれど、営業の相手は機械ではありません。人間です。人間と人間のやり取りに、完成形はきっとありません。昨日までの営業が上手くいっている人もいれば、そうでない人もいます。だけど今日からの営業で相手をするお客さまは、昨日までお話をしてきたお客さまとは違うお客さまです。それは確かです。昨日までの営業を思い出して、今日からここを少しこう変えてみようと、そうすることは、誰にでもできることです。それをするかしないか、それだけのことです。僕は、それをする人でありたいなあと思います。「前の方が良かった」と言われることも、もしかしたらあるかも知れません。そうなったら、そうなった時にまた考えます。今日の僕がこれが1番良いと思う方法を探す、とにかくそれを続けていきたいなあということです。

 

というわけで、週末の夜にプライベートを楽しみながら、そんなこともつらつらと考えていました。それでは今日も1日、よろしくお願いいたします。

 


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