book of the year: 2011

もう古い話に感じられるけれど、「2011年の漢字」、まあ多くの方と同じく、僕もあれを知った瞬間にどこか薄ら寒い気持ちになったのは否めない。

2010年以前の「今年の漢字」は、実際にあったことがそのまま採用されていた。例えば1995年「震」、1998年「毒」。対して2011年のそれは、そこにあってほしかったもの、そこにあるべきだったものが「年を代表する漢字」として採用されてしまったのだ。私たちの感じる違和感の正体は、それだ。

ツイッターでこんなような意味のツイートがRTで流れてきて、これは正鵠を射ているなーと、感心したのを憶えている。

「絆」が寒いのと同じように、「3.11」も寒い。「フクシマ」も寒い。あれを対象化して語ろうとする言説のほぼ全てが、ひたすらに寒く感じられて仕方がない。あれを絡めて語ろうとする言説のほぼすべてに、あれを絡める必要を感じられなくて仕方がない。あれを的確に表す言葉なんてきっとなくて、当事者の言葉にならない怒りと恐怖と悲しみ、それ以外はどんなに努力したって表現しえない(そもそもあれを語ろうと「努力」する時点で、お前はお呼びじゃないんだってことに気付けやってことなんだけどね)、あれはきっと、そういう類のことなんだと思う。
3月10日以前の僕と3月11日の僕は間違いなく別人だけれど、それと同じように3月11日の僕と3月12日の僕も別人だ。良いことなのか悪いことなのか、正しいことなのか間違っていることなのか、それは知らないし知りえないし知ろうと思わないけれど、3月11日は、僕の生活を一変させなかった。僕という人間を作り変えなかった。

煎じ詰めて言うまでもなく、年ごとに区切ることにも大した意味なんてない。多分それは、3月11日以前と3月12日以降で区切ること以上に、意味がない。それを重々承知した上で、年ごとに区切ってみよう。2011年を過ごしてきた僕を、2011年に読んだ本を通して振り返ろう。


2011年の5冊


無縁社会

無縁社会

憶えているだろうか。2010年の暮れから2011年の初頭にかけて言論界を席巻した、「無縁社会」という言葉を。それこそ3月11日を境にぱたりと下火になった印象のある、「無縁社会」という言葉を。2011年の漢字の「絆」とはまるで対極に存在する、「無縁社会」という言葉を。2011年にあってほしかった、2011年にあるべきだった、そんなものからまるで対極に存在する、ということはつまり、2011年のこの国に厳然として存在していた現実を指し示す「無縁社会」という言葉を。少なくとも僕は、この言葉を知ってからこの言葉を忘れたことは1度もない。それどころか2011年を振り返って思うのは、2011年に読んできた本のほぼすべての下敷きに、この1冊が存在していたということだ。2011年の僕の生活の奥深くに、この言葉が存在していたということだ。


なずな

なずな


マザーズ

マザーズ

無縁社会の中に「絆」がないと、そこまで言い切ることまではしない。けれど、無縁社会の中に「絆」を見つけ出すのは、とても難しい。見つけられればもちろん素晴らしいんだけれど、そう簡単に見つけられるものでもない。無縁社会の中で絆を見つけるよりは難しくないこと、それは無縁社会の中で「縁」を作ること、「縁」を見出すことだ。「なずな」「マザーズ」の2冊の挑戦。受動的な形で引き受けざるを得なかった疑似家族の父が子との縁を作り出していく「なずな」の挑戦。パートナーとの縁をうまく作れない女たちが、それでも母として子との縁を作り出していく「マザーズ」の挑戦。その過程は、ただ過ぎていくようで、かけがえがない。その過程は、壊れやすくも、かけがえがない。誰かと生きていくことは、こんなにも奇蹟に満ちた軌跡だということを、この2冊の小説が僕に伝えてくれた。


一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

現代の知性・東浩紀の最新刊「一般意志2.0」。こういう類の本への親和性をどんどんと失いつつあることを自覚せざるを得ない僕にも、この1冊は優しく扉を開く。こういう類の本への親和性を強く持っているような人間、こういう類の本への親和性を失いつつある人間、こういう類の本への親和性を失った人間、こういう類の本への親和性を元来持たない人間、様々な人間が存在する。様々な人間が存在することから目を逸らすな。自分と似通った人間に通じる言葉で自分と似通った言葉で話すことで「絆」のある社会を作れると誤解するような、おめでたくて愚かな人間になるな。「絆」も「縁」も作れない人間の集合体の中で生きていくこと。それがこの現代を生きることなんじゃないの? この1冊に、そう問いかけられている気がした。


ジェントルマン

ジェントルマン

「絆」も「縁」も作れないことが、そもそも悪いことなのか。山田詠美の小説を読むと、そんな気分になる。「絆」や「縁」は、そもそも作るものなのか。「絆」や「縁」は、後天的に作っていくものじゃなく、先天的に与えられているものじゃないのか。「絆」や「縁」のある人間とは、遅かれ早かれ必ず出会い、したいしたくないにかかわらず、そこに縛られながら生きていくことは、あらかじめ決まっているんじゃないのか。山田詠美の小説を読むと、そんな気分になる。それがもっとも美しく熟していく姿を描いたのが前作「学問」だとすれば、それがもっとも醜く腐敗していく姿を描いたのが、今作「ジェントルマン」だと感じた。いずれにせよ、それは作るものではなく、元から其処に在るものなのだ。そんな態度を表明する彼女の筆致は、毎度のこととは言え、息を呑む絶佳。