南波志帆 / 乙女失格。

乙女失格。

乙女失格。

CDが売れなくなっただなんだといわれる昨今、そんなの知ったことかと今年も50枚強くらいは新譜を買ったと思うんだけど、ひとつの確かな事実として、シングルの購入枚数は例えば10年前の自分と比較しても一目瞭然に激減してる。シングルをリリースしないミュージシャンの比率が増えてきたのもあると思うし、まあアルバム単位でちゃんと追いかけてるからわざわざシングルまでは良いかなと思ってしまうようになってきてるのもあると思う。CD棚で確認してみたところ、今年シングルCDを買ったのは、ももいろクローバーZ南波志帆ちゃんの2組だけだった。

昔からロッキング・オンに登場するような音楽と同じくらいにガーリーポップな音楽が好きで、前者はアルバム単位でちゃんと追いかけてるからわざわざシングルまでは良いかなと思ってしまうようになったんだけど、後者は昔からシングルも比較的購入率が高くて、それはたとえば握手会のチケットが入っているからというような理由では特になくて、単純にガーリーポップのミュージシャンは当たり前だけど若い女性であることが多くて、そんな彼女たちの表現は当たり前だけど移ろいやすく、そんな彼女たちの表現が変わっていく過程をできる限りリアルタイムで聴いていきたいという理由からで、そんなことを、去年の良作アルバムから間を置かずにシングルをリリースし続けた2組に再認識させてもらった。ここまで書いて気づいたんだけど、だったら今年は特に、チャットモンチーのシングルもしっかり買っておくべきだった。

ロッキング・オンに登場するようなミュージシャンと、ガーリーポップのミュージシャン。僕がその両者の間に僕の中で最もわかりやすい線を引くとすれば、その線は(もちろん例外もあるけど)自作自演か他作自演かってそれになる。音楽をただ音楽として愛するよりも、音楽を人生にまとわりついてくる何かとして愛したい、そんな僕みたいな人間が前者に惹かれていくのは、そう考えると必然性がある。むしろ必然性しかない。音楽をただ音楽として愛しようと思えば、全曲解説も2万字インタヴューも、単なる蛇足でしかない。だけど音楽を人生にまとわりついてくる何かとして愛しようと思うと、全曲解説も2万字インタヴューも一転、ある種の教典としての価値を帯びてくる。まあ音楽雑誌を買わなくなって久しい今の僕のこの言葉がどれだけの信憑性を持つかは、かなり怪しいところだけれど。

 

毎度のことながら、前置きが長くなってきた。結局何が言いたいかというと、僕は音楽を、ただの音楽としても愛してるけど、それ以上に、人生にまとわりついてくる何かとしてこよなく愛している。それは、こう言い換えることもできる。僕は、音楽をある種の私小説として愛している。

 

南波志帆。2008年、15歳の時に「はじめまして、私。」でデビュー。翌年「君に届くかな、私。」、さらに翌年に「ごめんね、私。」と、『「私」3部作』を次々に発表。上述の音楽嗜好を持つ僕がその存在を知って、聴かない理由がない。そして上述の音楽嗜好を持つ僕は、当初彼女のことを自作自演のシンガーソングライターかと思いっ切り勘違いして聴いたんだけど、彼女が歌っていた曲は矢野博康土岐麻子西寺郷太らの日本を代表するポップソングメイカーたちの手によるもので、そして日本を代表するポップソングメイカーたちが作る曲が悪いものであるはずもなく、そしてそれは彼女自身の特徴的な声をあえて平坦に使うような、その魅力的なヴォーカルの力とも相俟って、僕の心を惹くには十分な作品だった。

つまりこういうことだ。僕にとって『「私」3部作』は、私小説というほどに強烈なパーソナリティーを持つ作品ではなかったけれど、そのガーリーポップな音楽の力で聴かせるだけのそれではあったということだ。それは1stフルアルバムとなった昨年の「水色ジェネレーション」にも言えることで、確かに「こどなの階段」や「たぶん、青春。」のようにその文脈だけでは語れないような興味深い曲もあったけれど、たとえばアルバムのラストを飾る作詞YUKI&作曲堀込泰行の「オーロラに隠れて」のその圧倒的な楽曲としての素晴らしさを思うと、仮にヴォーカルが彼女でなくても、あらかじめある程度の評価を得ることが約束されていた作品ではあったかもなとは思う。そして僕の中で「水色ジェネレーション」がある程度以上の評価を得るに至ったその立役者である彼女の魅力的なヴォーカルを貶める意図がまったくないことは、ここで言っておく。

 

前作から約1年半ぶりのフルアルバムとなった今作。作家陣を見ても、何人かの新顔こそあれど、彼ら彼女らは基本的には既に表現者として高い評価を受けている人たちで、そんな作家陣の作った良質な曲を魅力的なヴォーカルで彼女が歌い上げる、今作もそんな作品なのかなと、でもそれはそれで何の不満もないなと思いながら聴き始め、けれどシングル時にはそこまで響かなかった中盤の「髪を切る8の理由。」で事前の思いに一抹の違和感をおぼえ、最終曲&タイトル曲「乙女失格。」を聴き終えて、なぜだろう、僕はうっすら涙を浮かべていた。

15歳でデビューして今もまだ19歳で、きっちり1年に1枚のアルバムリリースを続ける彼女の表現は、まさに変わっていく過程のそれで、「髪を切る~」のリリースに合わせてトレードマークであった長い黒髪を実際にカットし(、さらにその後赤くカラーリングし)たことが象徴するように、特に最近の彼女から感じるのは、実人生と言えば言い過ぎにせよ、ミュージシャンとして表に出す部分のすべてを使って自分自身の変化の過程を刻み付けていこうとする、そんな意志。シングルで聴いた時にはそれを少しあざといと感じてしまっていた気がする僕は、アルバムの中盤で改めて聴いた時に、彼女の震えそうなヴォーカルに込められた表現者として生きる意志にたぶん初めて気づいたんだ。タイトル曲を、もう決壊しそうなヴォーカルで歌い切った彼女の表現者として生きる意志に、僕は間違いなく感動したんだ。

「髪を切る~」の尾形真理子&秦基博コンビをはじめ、今作で初めて彼女の作品に起用された作家陣も、それはもう間違いなく良い歌を作っている。たとえば「ばらばらバトル」を聴いて、初夏に聴いたけど特に響かなかった赤い公園を、これはしっかり聴き直さないといけないなと強く思った、それくらいに。

だけど、15歳のデビュー時から彼女の表現に携わり、ツイッターで見る限りプライベートでも彼女と親しくしている土岐麻子が作詞を手掛けた「乙女失格。」、この1曲の素晴らしさに関しては、ただ音楽としてでは語れ得ない部分が、間違いなくある。人生にまとわりつく何かとして語りたくなる部分が、間違いなくある。透明な水色の時は過ぎ、もはや少女ではなく、19年間を共にしたイメージも捨て去り、これからどう変わっていくのかもわからない。そんな表現者としての南波志帆の人生にまとわりつく音楽を、土岐麻子は作っている。土岐麻子が作る音楽で、南波志帆表現者としての南波志帆の人生にまとわりつく音楽を表現している。土岐麻子が作る音楽で、南波志帆はある種の私小説としての音楽を、間違いなく表現している。18歳の前作の一部でその萌芽を覗かせていた、他人と共作した私小説としての音楽を鳴らすという挑戦。19歳の南波志帆は、今作のすべてではないとはいえ、その挑戦に成功している。それは僕が知る限り、小室哲哉の作る音楽の上で安室奈美恵が表現し切って見せた、あの「SWEET 19 BLUES」以来の、そんな水準の、端的に言うなら、奇跡だ。

 

ロッキング・オンに登場するような音楽とガーリーポップが同じくらいに大好きなのは、たぶんこれからも変わらない。そして、ロッキング・オンに登場するようなガーリーポップ、他人と共作した私小説、そんな音楽が聴けたことはこれまでほとんどなかったし、これからもどれだけあるのかわからない。

そんな音楽でなくなったとしても、南波志帆の音楽が好きなのは、たぶんこれからも変わらない。だけどせっかくならば、もう少しの間でも良いから聴いていたい。それが、彼女が変わっていく過程の一部だとしても。だけどせっかくだから、もう少しの間だけは聴いていたい。それが、彼女が変わっていく過程の一部だからこそ。