曽我部恵一BAND / 曽我部恵一BAND

曽我部恵一BAND

曽我部恵一BAND

栄光に向かって走るあの列車は、果たしてこの2012年にも、この日本のどこかの線路を走っているのだろうか。僕の目に入ってくるのは、栄光に向かって走るあの列車ではなく、目的地を失ったように永遠に環状線を走り続ける、そんな満員電車だ。

見えない自由が欲しくて見えない銃を撃ちまくっていたあの頃と、自由も銃も見えすぎるほどに見えてしまう今日この頃と、どちらが幸せかなんて、そんな野暮なことを聞くつもりはないけれど。少なくとも今日の僕の目に映るあなたは、ただ今日を必死に生き延びるというそれだけが続く毎日に、少し疲れすぎているようで。

どこか遠くまで、季節の果てまで連れてってくれるような魔法のバスは、果たしてこの2012年にも、この日本のどこかの道路を走っているのだろうか。僕の目に入ってくるのは魔法のバスではなく、目的地を失ったように永遠に環状線を走り続ける、そんな満員電車だ。

退屈の海、生きるってこと。たとえ魔法のバスに乗ったって、そいつらはどうしようもなくまとわりついてくるってこと、僕らはもう知っているよね。 

 

2008年に曽我部恵一BAND、2010年にサニーデイ・サービス、2011年に曽我部恵一。それぞれ異なる3つの名義で、それぞれ異なる3つの表現で、ここ数年、立て続けに名盤をリリースしてきた曽我部恵一さん。そして今年2012年にリリースされたのは、4年前の傑作と3年前の力作でその活動に一応のピリオドが打たれたのかなと思っていた、曽我部恵一BANDの、3年ぶりになる3rdアルバムだ。

2012年の曽我部恵一BANDは、誤解を恐れずに言おう、2008年と2009年の曽我部恵一BANDとは、全くの別物だ。名義は変わらずとも、バンドメンバーは変わらずとも、その表現は、全くの別物だ。「回春パンク」なんて言葉も使われたほどに、不惑を前にした曽我部さんが年齢不相応に叫ぶ姿がそのストロングポイントでさえあった2008年と2009年のソカバン、その歌に、僕は何度も胸を震わせて貰った。けれどあえて言おう。2012年のソカバンは、そんなもんじゃない。その比ではない。

2012年の曽我部恵一BAND。そこには、サニーデイ・サービスがあり、曽我部恵一があり、曽我部恵一ランデヴーバンドもあり、そしてもちろん、曽我部恵一BANDだ。曽我部恵一さんという1人の表現者がもう15年以上前にシーンに初めて登場してから今までに世に問うてきたあらゆる表現のそのすべてが、このアルバムに詰まっていると言っても良い。

2012年の曽我部恵一BAND。そこにはボブ・ディランがいて、ニール・ヤングもいる。ブルース・スプリングスティーンもいれば、ジョン・レノンジョー・ストラマーの姿さえも見えるようだ。曽我部恵一さんという1人の表現者に影響を与えてきたであろう表現者の表現は、このアルバムの中で、曽我部恵一さんに完全に咀嚼されていると言ってしまって良い。

全15曲の、そのちょうど8曲目のインスト「誕生」を挟んであたかもレコードのA面とB面かのように構成されているこの1枚の、超絶名曲「ソング・フォー・シェルター」で幕を開け、冒頭のようなたわごとを考えないではいられない、まるで「TRAIN-TRAIN」への2012年からの回答のような、自ら生み出したアンセム「魔法のバスに乗って」への2012年からの回答のような、そんな静かなる超名曲「満員電車は走る」で幕を下ろすこのアルバムで、ハイライトを挙げるのも難しいほどに全曲がちょっと信じがたいクオリティのこのアルバムで、それでもハイライトを挙げるならば、「街の冬」~「月夜のメロディ」、A面の終わり2曲だろうか。かつてのソカバンのようなテンションに乗せてニール・ヤングスプリングスティーンのようなダイレクトな憤りを曽我部さんが叫ぶ「街の冬」から、サニーデイのようなボブ・ディランのような遣る瀬無さを曽我部さんが歌う「月夜のメロディ」にかけて、本作は間違いなく、ハイライトを迎えている。そしてそれは同時に、曽我部恵一さんという1人の表現者の15年以上に渡るキャリアの、幾度目かのハイライトでもある。

 

少しだけ、個人的な話をさせて欲しい。前身ブログでも何度か書いてきた通り、1980年生まれでもうすぐ32歳になる僕は、1996年か1997年、もう15年以上も前に、曽我部恵一さんの音楽に初めて出会った。すぐに心奪われて曽我部さんの音楽の虜になった僕は、気づけばもう15年以上も彼の作る音楽に心奪われっぱなしで、もう15年以上も彼の作る音楽にいろいろな気持ちを震わせられっぱなしで。そんな僕が本作を聴いていて、彼を聴いていて初めてかもしれないしそうでないかもしれない、とにかく実感したことがあって。

15年以上も前に初めて曽我部さんの作る音楽に出会った頃の僕は、曽我部さんの歌うような若者ではどう考えてもなくて、曽我部さんの歌う若者にはどうしたってなれない僕をどこかで感じながら、曽我部さんの歌う若者への憧れをどこかで感じながら、あの頃の曽我部さんの歌を聴いていた。それが悪いなんてちっとも思わないし、それが悲しいなんてちっとも思わない。素敵な夢を、素敵な空想をくれたあの頃の曽我部さんの歌を、僕は今だって嬉しく聴くよ。

今、曽我部さんの作る今の曽我部さんの歌を聴きながら、曽我部さんが歌う大人たちの、僕はその1人だなあって、そう思う。「街の冬」で歌われる「何度も区役所生活保護のお願いに」行くお姉ちゃんが数年後の僕の姿であっても別におかしくはないし、窓口でそれに対応する「区役所のおじさん」と僕の勤務形態なんて、本当に大差なさそうだ。「月夜のメロディ」で思いを寄せられる「生きてる意味がぜんぜんわからないって書き置いていなくなったおまえ」みたいな気持ちになった夜の数だって1日や2日じゃないし、そんな「おまえ」を見て「甘えたこと言うガキみたいだって思ったおれ」なんか、まさに今の僕なのかも知れない。曽我部さんの歌う大人たちの、僕はその1人だなあって、そう思う。曽我部さんの歌う大人たちの、僕も、あなたも、その1人だなあって、そう思う。曽我部さんの歌う、僕や、僕ではない大人たちを思いながら、僕を思いながら、あなたを思いながら、今の曽我部さんの歌を聴いている。それはきっと悲しいことで、それはきっと嬉しいことで、それはきっと、素敵なことで。

 

ラスト曲、「満員電車は走る」、曲中でいくつかのストーリーを語った後で、曽我部さんはこう歌う。

だれも正しくはない だれも間違ってはいない

生活保護のお願いに行くお姉ちゃんも、区役所のおっさんも、生きてる意味がぜんぜんわからないって書き置いていなくなったおまえも、おまえを見て甘えたこと言うガキみたいだって思ったおれも、そして僕も、そしてあなたも、そして、曽我部さんも。だれも正しくはないし、だれも間違ってはいないんだ。ただ、生きてるんだ。栄光に向かって走る電車も、魔法のバスも見つからないような、そんな2012年に、生きてるんだ。満員電車に揺られながら、あの列車を探して。満員電車に揺られながら、魔法のバスを探して。

満員電車に揺られて生きているすべての人たちのために、この1枚がありますように。満員電車に揺られて生きているすべての人たちが、この1枚を聴いていられますように。満員電車に揺られて生きているすべての人たちの心のからっぽの部分に、2012年の曽我部さんの歌が、どうか響きますように。

かつて曽我部さんが歌っていた若者ではどう考えてもなかった、かつての若者より。今の曽我部さんが歌う大人たちの、その1人より。