金原ひとみ / マザーズ

マザーズ

マザーズ

本を読むという行為そのものはもうそれこそ物心ついた時からずーっとしていることで、それは僕にとって本当に息を吸うのと同じくらい大切な行為だと思う。

物心ついた時。自我に目覚めた時。他者を意識し始めた時。恋愛を知った時。性を知った時。生きる意味を探し始めた時。死に思いを寄せた時。まだ見ぬ社会を思った時。この目で社会を知り始めた時。他はどんな時だ。その時にこの1冊を手にとったことにきっと大きな意味があるんだと、そう思わせてくれる沢山の本との出会いがあった。いつ手にとっても間違いないようなそんな名作との出会いに感謝するのと同じように、もしかしたらそれ以上に、出会いのタイミングを間違えずに出会えた、そんな作品に感謝することがある。

堀江敏幸「なずな」。あるいは宇野常寛「リトル・ピープルの時代」。父であること。あるいは、父になること。今年読んだ中でも鮮烈な印象を僕に残したこの2冊を退けて、現時点での2011年ベストにどっかり腰を据えたのは、この1冊。

母であること。あるいは、母になること。

本作に出てくる3人の主人公。3人の母。ある部分では重なり合い、ある部分では対偶に、ある部分ではねじれの位置にあるような3人。
母であること。それだけでかろうじて重なっているのかと読むことで精一杯の前半。3人の「母であること」の重さが、圧倒的なまでに細微な筆で描写される(こういうところはやはり村上龍の系譜だなあと思う)前半は、とにかくへヴィー。事件という事件が特に起こるわけでもない。にもかかわらず、とにかくへヴィー。母である日常は、ここまでへヴィーなのか。観念的に父になることを夢想しているような僕が圧倒的に現実を母として生きる彼女らを前に、何かを思う資格があるのだろうか。そんな風にさえ思わされた。
母であること。あるいは、母になること。同じようでいて、きっと違うんだろうな。父であることと父になることが違うのとは、また違う意味で。出産という、男性である僕は一生なしえない圧倒的体験はもちろんのことだけれど、それだけでもなく。

観念的に父となり、現実として母になる

「リトル・ピープルの時代」を読了した後に本作を読み始めた僕は、本作を半分程度まで読んだ時にふとこんな言葉をツイッターでつぶやいた。そして本作を読了した後に思うのは、単に観念的な父である人間は、母である人間が母になることを志向する際に於いては、邪魔者でこそあれ、力には決してなりえないんだろうってことだ。父にも母にも、きっと観念においてそうなることは誰しもに可能だ。望むと望まざるにかかわらず、誰もが「(価値観を)生み出すもの=(観念的な)父」であらざるを得ない、現代とは、宇野常寛によってそんな風に定義される時代なのだから。

本作の3人の母のパートナー、すなわち3人の父は、その前半に於いて、まさに滑稽なまでに観念的な父だ。望んだのか望んでいなかったのか、そんなことは問題ではないのだ。彼らは「生み出すもの」なのだ。そして彼らのパートナーは「生み出した」のだ。にもかかわらず彼らは「生み出すもの」として生きることから、徹底的に逃げている。現実を生きることから逃げている。大半が事件ではなく日常で展開していく本作で金原ひとみが描写しているのは、現実、現実でしかないのだ。たとえそれが僕の生きる現実ではなくても。たとえそれがあなたの生きる現実ではなくても。それは、現実なのだ。

そんなパートナーを持つ彼女たちは、それでも作品が幕を開けた時点で既に、母である。現実として、母である。「生み出したもの」として生きることから彼女たちは少なくとも、逃げてはいない。読むのが若干辛くなるような部分もある現実描写は、誰でもない彼女たちの現実の描写だ。
「生み出したもの」として生きることを引き受けることと、「生み出すもの」として生きることを引き受けること。言葉だけを見れば後者が先に来るように思えるし、事実僕もそう思っていたのだけれど、それはもしかしたら違うのかも知れない。「生み出した」後も、僕らは「生み出す」ことを止めようがない。パイプカットとか生理が止まるとかそういう現実的側面も勿論あるけれど勿論それだけでもなく、そう、観念的に「生み出すもの」であり続けることを止められないのが現代という時代であるのだから。
そして作中に起こる一つの事件を経て、彼女たちは最終的に「母になっていった」。「生み出した」後も続く「生み出すもの」として生きる道を、3人3様ではあるけれど、彼女たちは彼女たちの足で、しっかりと歩んでいくことを決めていった。そこに寄り添う父たちを、観念に閉じこもっていた父を引き寄せたのは、彼女たち、母たちだった。読み進めていく中で事件のフラグの影も感じられなかった僕は正直その展開に大きなショックを受けたし、その事件を起こさせる必要があったのかという割り切れない気持ちが読み終えて数日たった今も残っているのは事実だけれど、重い現実を生きる彼女らがその重みに押しつぶされることは、ついぞなかった。それは疑いようもなく、陳腐な言葉になってしまうけれど、感動的な展開だった。

観念的に「生み出すもの」となるその先に、現実的に「生み出すもの」として生きることを、選択するのか、しないのか。そのどちらを選ぶのかは、この現代に於いて、まあ個人の自由だ。
ただ、現実として「生み出した」後には、この現代に於いて、一つの道しか用意されていない。そしてその一つの道に踏み出していくことを決めるのは、その一つの道に踏み出していくのは、この現代に於いて多くの場合、母である女性だ。
自らも現在育児中という金原ひとみは、現代に於いて「母であること」、「母になること」の現実を過ごしている。そんな金原ひとみによって書かれた現実としての「母」の物語がここまでへヴィーでシビアなものとなったことに、現実として「父」になる予定も特にないような、けれどここ数年「父になりたい」という、数年前の自分からは想像もつかなかったような気持ちが湧き上がりつつあるのを自覚し始めたような、そんな僕は、ただただ圧倒されながら、ただただ感動することしかできなかった。

金原ひとみの最高傑作という評価ももチラホラ目にする、つまり数年後には名作として多くの読者の記憶に残る可能性のある本作は、だけどそれ以上に、同世代の友人たちが現実に父となり母となっていくここ数年、観念的に父であることをようやく自覚しつつある、そんな僕にとっては、今出会えたことに大きな意味を感じ、今出会えたことに大きく感謝したい、そんな大切な1冊となった。