吉田徹 / ポピュリズムを考える

ポピュリズムを考える―民主主義への再入門 (NHKブックス No.1176)

ポピュリズムを考える―民主主義への再入門 (NHKブックス No.1176)

ポピュリズム」。この言葉が頻繁に僕の耳に入るようになったのは、ちょうど僕が選挙権を得た頃のことで、そして僕は選挙権を得て以来、国政に於いては一つの政党に対してしか投票していない。しかし僕のような人間はきっと少数派で、それは僕が選挙権を得る少し前から「無党派層」という言葉が急激に認知度を高めてきたことと、無関係ではない。

小泉純一郎シルヴィオ・ベルルスコーニニコラ・サルコジといった、代表的な「現代における」ポピュリストの分析から始まり、マーガレット・サッチャーシャルル・ド・ゴール中曽根康弘といった、「現代史上」のポピュリストにまで視野を広げていくことで、著者は生成からその現状まで、クロニクル的にはそれほど長い期間でこそないものの、その実態を変態しながら「現代」に一貫して存在し続ける「ポピュリズム」の実態を、精緻に読み解くことに成功しているように感じた。

中でも特に興味深かったのは、5章構成からなる本書の最終章、第5章である。

「最悪な政治形態ということが出来る。これまでに試みられてきた、それ以外のあらゆる政治形態を除けば」

有名なこのレトリックで評されるのは、現代の大半の国・地域で採用されている政治形態である、そう、民主主義である。
著者に拠れば、ポピュリズムとは、現代の民主主義が不可避的に生み出すものだと考えることが出来る。もう少し詳しく著者の主張を引用すると、民主主義には、その成立形態やその本質を考えても、厳密には、民主政治を「手段」として捉える民主主義と、民主政治を「理想」として捉える民主主義があり、そしてそのふたつは、混在せざるを得ない。この両者を発展させていった例としてわかりやすいと思われるのが、例えば「小さな政府」と「大きな政府」の対立軸ではないだろうか。しかしこの両者ともに、それぞれの立場から「民主主義」を遂行していった結果として生み出される結果としての形態であること、その一点に於いては同質のものと考えられるのである。
著者はそれを「『懐疑=理性』の民主主義」と「『信念=情念』の民主主義」という言葉で表している。民主主義の機能的、形式的な面を重視するのが前者、対して民主主義の理想を重視するのが後者であるという考え方である。

そして、ポピュリズムとは、その本質として二項対立的性質を予め持たざるを得ない「民主主義」の、その時々に於いて軽視される、その時々に於ける「虐げられた人びと」の側から発生してくるものである、というのが著者の主張である、というように僕は受け取った。そして、その善悪を著者は判断しない。一概に害悪と言えるものではない。虐げられている一定層の代弁者として出現するのがポピュリストである以上、「彼」が民主政治の申し子であるのは疑いようのない事実であるから。しかし前述したように、ポピュリズムが二項対立としての民主主義が不可避的に生み出すものとして存在する以上、「彼」は、常に二項のいずれかの立場から出現し、そしてもう一項を徹底的に攻撃することで勢力を増していく存在として「しか存在しえない」。たとえば小泉純一郎首相の誕生から郵政解散までの、僕の、そして同じようにあなたの記憶の中にある彼の姿を思い返せば、この説に頷いてもらうことが出来るだろう。

僕という人間をご存知の方、あるいはそうでなくても2つ前のエントリを読んでくれた読者の方はよく分かると思うが、僕という人間は、どう考えても前述の二項対立図に基づいて考えれば前者、民主政治の機能的な側面を評価し、それ故に民主政治は目的でなく手段と考える、民主主義は「理性」に拠るものであると定義づけるような、そんな性質を強く持っている。もちろん、完全に一項に寄って存在し得るほど強く幸せな人間ではないので、もう一項、民主主義の掲げる理想に共鳴し、民主政治それ自体が目的の具現した姿であると考える、民主政治を「情念」に拠って定義づける性質が、無いとは言わない。しかし、普段の行動や、意識的に頭を働かせていない時に拠る思考は、明らかにそちら側ではない。

だからこそ、僕は何か意識的にものを選ぶ時には、元々僕の持つ性質とは逆の方面から発せられる声、自分の中で弱々しく発せられる声に、必要以上に耳を傾けざるを得なくなっているのではないか。自分の中にある二項対立性の歪みから出現する、自分の中のポピュリスト的な声が、自分の中でそれを完結させ、だからこそ僕は、例えば小泉純一郎さんという1人の人物の一挙手一投足をもちろん注視し、それを時に笑い、それに時に呆れながらも、熱狂することは、終ぞなかったのかも知れない。

支持率が高いから支持し、支持率が低いから支持しない。近年乱降下を繰り返す内閣支持率のニュースからは、そんな姿しか僕には見えない。そこでこそ、誰もが自分の中にあるだろう自分の中のポピュリスト的な声に、落ち着いて耳を傾けてみるべきなのではないだろうか。二項対立の、虐げられた側の声に耳を傾けること。少数の声に耳を傾けること。これは、誇るべき民主主義の一つの性質である。選挙権を得る程度に生きてこれば、自分の中にはいくつもの声があることを、自分で理解することくらいはできるはずである。そしてそのいくつもの声に、時に引き裂かれそうになる。それをアンビヴァレントだと嗤うのは、容易いのかもしれない。だけど少なくとも、それを嗤うべきものだなんて、僕は少しも思わない。

アンビヴァレントであること。僕の座右の銘のひとつである。アンビヴァレントであることにより、時に傷付き、時に耐えがたい悲しみに襲われる。だけど、アンビヴァレントであることにより、僕は僕として生きていられる。僕は僕の選択をしてこられたと、そう思えるのは、僕がアンビヴァレントであり続けられたからなのかも知れない。