山竹伸二 / 「認められたい」の正体

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

こういう文章を書いている時点で、僕にも「承認欲求」が存在するのはもはや当たり前のことである。今更それを否定するような恥ずかしい人間では、さすがに無い。
だがしかし、「承認欲求」があることは全くもって否定しないけれど、「承認不安」を抱えているか? と問われれば、イエスとは答えづらい。個人的な欲求にしたがってはじめた個人的なブログにコメントが付かなかったとしても、それでも自分の書きたい欲求を優先して延々と記事をアップし続けられる、それくらいには自分本位でいられるのである(笑)。

フロイトヘーゲルデリダラカン、などなど、一度は名前を聞いたことはあるであろう哲学者の思想を引用しながら、現代社会における承認不安について述べているのが本書である。

作者によれば、承認には3種類のそれが存在する。親和的承認、集団的承認、一般的承認。そしてこの3つは、それぞれが完全に独立することはなく、相補的な関係として存在している。
まず、親和的承認。最もわかりやすい例を挙げれば、子供に対する親からの承認。あるいは、恋人や親友からの承認。「ありのままの自分」に対する、基本的には無条件の承認。
続いて、集団的承認。学校であり会社であったりする、その時々に自分が属する集団からの承認。これは、その集団が共有する価値観に基づく条件付き承認であり、無条件な承認ではない。自助努力によって得られる承認、そう説明することも可能であろう。
そして最後に、一般的承認。上記ふたつのいずれとも異なる段階の他者、著者の言葉を借りれば「社会的関係にある他者一般」からの承認となる。ありのままでもなく、自助努力によって得られるとも限らない、と言うと獲得が難しいようにも思えるのだが、あくまでも本書に拠るその正体は、「社会一般の人々が共通して認める普遍性(一般性)のある価値」に基づいた承認となる。そしてその「普遍性(一般性)のある価値」の正体を、著者は道徳に求めてしまっているところに、僕は全体としてはなかなかに興味深く出来ている本書の限界を見てしまった気がして、少し残念な気持ちにはなったことは否めなかった。

この3種類の承認の相補的関係を上手く描き出した例として著者が挙げるのは、浅野いにお作の漫画「ソラニン」である。この記事を読んでくれている数少ない読者の中には、僕よりもこの作品に対する理解が確実に深い方が存在することを僕は知っているので、少し長くなるが、以下、当該部分を全文引用してみよう。

OA機器メーカーで働く芽衣子は、毎日、コピーなどの瑣末な業務に追われ、会社に嫌気がさしている。一流企業なので給料も高く、社会人としての承認も周囲から得ているが、社内で仕事が特別に認められるポジションでもなく、集団的承認の満足度はかなり低い。しかし一方で、彼女には同棲している恋人の種田がおり、親和的承認を享受している。芽衣子が会社を辞めたいと口にすると、種田はこう助言する。「辞めちゃいなよ。本当に芽衣子がそうしたいなら」「たとえ誰かに馬鹿にされたり、将来が真っ暗で見えなくなったり、行きつく先が世界の果ての果てだったとしても、芽衣子と俺は一緒なんだから」。彼女は思わず彼に抱きつき、翌日、辞表を提出する。「ありのままの自分」を受け容れてくれた種田の親和的承認にすがり、かろうじて繋ぎとめていた会社の集団的承認に見切りをつけるのだ。
しかし、芽衣子は緩い幸せの中で、時折こう感じるようになる。「自分が社会にまるで貢献していないのを思い出して、まるでこの世に存在しない、死人のような気分になって、すごく怖くなる」。これは集団的承認や一般的承認など、社会的な承認の欠落感を実にうまく表している。
一方で、彼女はフリーターをしている種田に、ミュージシャンになる夢をあきらめて欲しくないと詰め寄り、煮え切らない態度の彼に対してこう叫ぶ。「種田は誰かに批判されんのが怖いんだ!! 大好きな大好きな音楽でさ!! でも、褒められてもけなされても、評価されてはじめて価値が出るんじゃん!?」と。芽衣子は種田にも「ありのままの自分」でいてほしい、と願っている。しかしそれは、いまの「ありのままの彼」を批判する発言でもあり、親和的承認に充足せず、社会からの一般的承認を目指せ、と言っているようなものだ。そこには、彼女自身の社会的な承認の欠落感を埋めようとする無意識の心理が働いている。
しかし、種田はバイクの事故で死んでしまい、芽衣子は大きな悲しみに襲われる。それは同時に、最愛の人間による親和的承認の喪失をも意味していた。その後、種田の荷物を引き取りにきた彼の父親から、「アイツがいたということを証明し続けるのが、あなたの役割なのかもしれない」と言われ、ギターを手にして、種田のバンド仲間と音楽活動をはじめる。それがいまの自分の役割であり、自分が生きている意味なのだ、と自分自身に言い聞かせるかのように。
もちろん、素人の芽衣子が音楽で一般的承認を享受する可能性は低いし、そんな事は彼女もわかっている。それでもバンド仲間達の親和的承認および集団的承認に支えられ、彼女は少しずつ自分の気持ちにけりをつけていくのである。

一読した時は著者の解釈に小さな疑問符を付けた上記引用部分をこうして再度引用してみると、意外と概ねは納得がいく自分がいることに気付く。

著者が定義した3種類の承認の中で、「ソラニン」が見事に表出している現代社会が抱く承認不安とは、僕にはどうしても、親和的承認の占める部分が大きいようにしか映らない。現代の学生が抱く承認不安の正体がそれであるのならば、別にそれはそれで構わなかったと思う。現代に限った話でもなかったと思うから。それこそ普遍性、一般性のある話であったと思うから。
現代社会」という言葉が「社会」という言葉を内包しているのは、言葉を見れば誰にでも分かる。そして、既に「社会」に出た人間の視点から著者が定義した3種類を承認を見た場合に、この中で唯一どう拡大解釈しても「社会」と同義になりえない視点からの承認は、この「親和的承認」である。

「ありのままのあなた」を「僕」が承認することは、あるかも知れない。ないかも知れない。「ありのままの僕」を「あなた」が承認してくれればそれは嬉しいけれど、してくれなくても、それは仕方ない。その時はまた、別の「あなた」を探すのだろう。
「ありのままの自分」を「社会」が承認することなど、ありえない。ない。してくれない時に、別の「社会」を探しても、そんなものは、ない。

「ありのまま」の姿を承認して貰う相手は、2人称に求めれば良いんじゃないのですかね。それを3人称に求めてしまうが故に起こる承認不安、それが現代社会における「『認められたい』の正体」だとすれば、僕はそれを、悲劇と捉えれば良いのか、はたまた喜劇と捉えるべきなのか。「『認められたい』の正体」と言う本書のタイトルは、その意味ではたとえば「『認められないのが怖い』の正体」とでもした方が、著者の意には則しているように思う。

ソラニン」は、著者の解釈に於いても、僕の読後感に於いても、最終的に、芽衣子は社会への扉を開き切ってはいない。芽衣子は芽衣子として存在し、それを社会に承認して貰おうとは、作品が終了する時点では思っていない。かつて種田が芽衣子にもたらした親和的承認は、喪失されたまま。かつて自ら絶ち切った集団的承認が、「来月から都内の小さな会社に勤めることが決まった」ことにより取り戻されると断言するのは、あまりに希望的観測が過ぎる。
けれど、彼女がそれで良いと言うのなら、それを責める理由などない。少なくとも彼女は、わきまえてはいる。ありのままの自分の、ありのままの丈に合った承認欲求、それで満ち足りてはいる。それに対して第3者が何を思おうと、それに口出しする理由はない。ありのままの芽衣子に、2人称として向き合う、その覚悟を持った人間でないのなら。2人称としての承認をもたらす存在になる、そういう気持ちを持った人間でないのなら。

ソラニン 1 (ヤングサンデーコミックス)

ソラニン 1 (ヤングサンデーコミックス)

ソラニン 2 (ヤングサンデーコミックス)

ソラニン 2 (ヤングサンデーコミックス)