家族になること・家族を作ること part1

優しいおとな

優しいおとな

砂の上のあなた

砂の上のあなた

最近読んだ中ではこの2冊。どちらの作家さんもずっと好きで、著作はコンプリートしている。
けれど、今回読んだそれぞれの作品がそれぞれの作家さんの最高傑作かと問われれば、そういうわけではない。

ただ面白いことにこの2作品、作品で提示された主題がとても近い。もっと言うと、先日取り上げた角田光代さんの「ひそやかな花園」にも通じている。

「大事な人がいると、どうして自分のことしか考えられなくなるんだろう」
「そうだよね、きょうだいだもの」
「僕もイオンが大事な人だよ。イオンが誰かに連れて行かれたら、こうやって捜しに行くよ。そして、そいつを殺してやる。だって、大事なきょうだいなんだから」

(「優しいおとな」より)

「もちろん私はこの子の尊い命を輝かせるために、その光の住処である肉体という器を精一杯準備しよう。そうやってこの子という命の光をこの世界に成就させよう。だが、私はそれ以上の何ものをもこの子のためにはからうまい。この子のために何も望まず何も期待せず、何も欲せず、何も奪うまい。私が私として生きるためにこの子を利用するようなことは決してすまい」
「そして私は何よりも、この子の幸福を願うような愚かなことは絶対にすまい」

(「砂の上のあなた」より)

この言葉の強さよ。この言葉を吐き出すに至った、その思索の強さよ。

年齢や人生経験に拠るところが大きいのかな。かつてはまるで無い、どころか忌み嫌ってさえいた結婚願望、家族願望というものが、ここ数年で少しずつ自分の中で育ちつつあるのを感じている。んで把握している限りでは、結婚願望よりも家族願望の方が大きい。具体的に言えば、人生のパートナーが欲しいというよりも、子供が欲しいという気持ち。

知らない何処かで生まれ落ち、知らない何処かで生まれ育ち、何かの弾みで出会い、何かの弾みに過ぎないものを運命だなんて受け取り、弾みが無ければ知らないまま通り過ぎていったに違いない誰かを、人生を共に歩む伴侶とする。
怖過ぎる。

明確な意思の下、自分の精子を「知らないどこかで生まれ落ち、知らないどこかで生まれ育ち、何かの弾みで出会い、何かの弾みに過ぎないものを運命だなんて受け取り、弾みが無ければ知らないまま通り過ぎていったに違いない誰か」の卵子と結合させ、自分がその人生に決定的な影響を与えることが予め決められている存在を、この世に生み落とす。
怖過ぎる、なんてもんじゃあ済まない。

怖過ぎる。
怖過ぎる、なんてもんじゃあ済まない。

それでも子どもを望み、家族を望む、その気持ちの理由は、一体何だろう。その気持ちの出どころは、一体どこにあるのだろう。

……一体何だろう。……一体何処にあるのだろう。

予定稿とか下書きとか推敲とか一切無しで書き始め、書いているうちに答えらしきものが見つかり、書いているうちに答えらしきものに辿り着く。いつもそうやって書いてきたし、今もそうやって書き始めた。
当然、答えらしきものが見つからず、答えらしきものに辿り着かないこともある。今が、それである。

一旦筆を置く。筆を置いて、考えを煮詰める。

現時点で出す答えが正解かどうかなんて、まあ言えばどうでも良い。現時点で答えを出すことすら、どうでも良いのかも知れない。

でも、現時点で答えを出すことは僕が強く欲していることだから、一旦筆を置いて考えを煮詰めて、現時点での答えを提示する。

というわけで、一旦終わり。