角田光代 / ひそやかな花園

最近ある人がtwitter上で僕のレビューを評して、「『こんな悩みや弱音、本音、戸惑いのような感想を見せてもいいんだろうか』みたいな躊躇いを少し感じさせながら、『けれど、これが僕の選ぶ前進だ』という意気込みが見えてくる」という言葉をくれた。

恥ずかしげもなく言えば、涙が出そうに嬉しかった。この言葉をかけてもらえた、こう感じてもらえた、それだけで、自分がこれまで書いてきた文章の数々、感じた気持ちをあらわしてきた行為に意味があったんだと、大袈裟ではなくそう思えた。この言葉をかけてもらえたから意味ができたわけじゃない、それは自分の中では勿論そうなんだけれど、この言葉をかけてもらって「意味がある」と感じたこともまた、偽りない僕の気持ちなわけで。

レビューの場を使って、長々とお前の心象風景を書き連ねるな。そう言われれば返す言葉は無いけれど、この気持ちは、僕のこの作品に対するレビューの、紛れもない一部です。

仄かなミステリー風味を醸し出しながら作品世界に読者をいざなう、角田光代の最新作。その謎の正体は、まあミステリーには疎い僕が全4章中1章を読了した時点で「多分アレだろう」と思った通りのソレであり、そのソレの正体も、全4章中2章を読了する時点で、作中でもしっかり明かされる。
そのアレだかソレだかを共通体験として持つ若者たちが、この群像小説の主人公だ。

角田作品に通底しているテーマは、それこそ過去レビューでも何度も繰り返してきた通り(詳しくはmixiしずちゃん」のレビューを参照下さい) 。

自分の居場所は、どこにあるのだろう。

恋愛に重きを置いた作品でも、働く女を取り上げた作品でも、執拗に執拗に、角田光代はこのテーマを追い求める。

「居場所を、見つけたい」と。

傑作「八日目の蝉」は、やはり角田光代自身にとってもターニングポイントだったのか。同じテーマを掲げながらも、その方法論は、少しだけ変化してきたように思う。そして多分、本作品にもそれは反映されている。

「居場所を、見つけたい」から、「居場所を、踏みしめたい」へ。

旅を繰り返して目に映る世界を変えても、自分が変わるわけではない。「職業:冒険家」なんかの、それこそ日毎に塒を異にするような、そんな環境を日常としている人間でもない限り。

僕たちが暮らすのは、眠りから醒めれば同じ天井が眼に映り、疲れきって家に帰り同じシーツに包まって眠りに落ちる、そんな各々の世界だ。僕達は、各々違う世界の中で、互いの輪郭の一部分が少しだけ相通じ合うような、そんな感情を持って生きている。

僕の喜びは僕の喜びで、決して君の喜びじゃない。君の悲しみは君の悲しみで、決して彼の悲しみじゃない。彼の怒りは彼の怒りで、決して僕の怒りじゃない。
でも。
喜ぶ僕を見た君も、少しだけ喜べないかな。悲しむ君を見た彼は、少しだけ悲しそう。怒る彼を見ていると、僕も少しだけ怒りをおぼえるよ。

そんなふうに人と人はリンクして、リンクした部分が僕の全体の99%を占めていたとしても、僕にしかない部分が1%あるじゃないか。1%もあれば十分じゃないか。
たとえリンクした部分だけで僕が出来ていたとしても、僕と同じリンク具合の人間は、多分いないよ。神様はそんなに細かくないよ。根拠は無いけど、それはそうだよ。

自分の居場所は、自分が生まれた瞬間にあって、それは探すものじゃない。今の角田さんは、きっとそう思ってる。
そこは、決してのうのうと安住するところじゃない。けれど、そこは、決して誰かが霞め取れるところじゃない。
なぜなら、自分はもう自分でしかないから。良いとか悪いとかじゃなく、自分は自分以外には、決してなりえないから。
そこからどう飛び立つか。そこから今の自分じゃない未来の自分に、如何にしてなっていくか。

僕の選ぶ前進は、あなたから見れば後退かも知れません。あなたから見ればカニ歩きかも知れません。あなたから見れば、僕はもはやブレードランナーに乗っているのかも知れません。

それでも僕は、僕の選ぶ前進をしていくのです。

それしかできないし、それしかしたくないから。僕にしかできないし、僕しかしない、そんな前進だと知ってるから。

生きていくこと。それをこんなにも力強く「肯定」する小説には、そうそう出逢えるものじゃない。

角田光代は、自分を更新し続ける。

ひそやかな花園

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