Syrup16g / Hurt

 

Hurt

Hurt

 

スーパーカーを聴いても心が揺さぶられなくなったら、その時は音楽を聴くことを止めようと、17歳の時に初めて聴いた時からずっとそう思っているのだけれど、このバンドに関しては、そういうのとはちょっと違うと思っていた。このバンドを聴いても心が揺さぶられなくなる時がいつかきっと来るのだろうけど、それは音楽を聴くことを止める時とかじゃなくて、それが僕が大人になった時なんだと、かつてはそう思っていた。僕が27歳の時に解散したこのバンドを、かつてとても切実な思いで聴いていたのは紛れもない事実だけれど、たとえば山崎洋一郎さんが「Meat Is Murder」のライナーでThe Smithsについて語っていた言葉を借りれば、「今、僕はあまりスミスを聞かない。卒業したとかそういうのではない。スミスは究極の屈折として、絶望として、僕の頭の中のレコード棚の一番左に置かれている」ような、そんな立ち位置のバンドになっていく、そんな時がいつか来るんだと思っていた。「またきっといつか、とても切実な思いで聞く日がやってくるのだ」と、そう思いながらも、それはずっと先の日のことだろうと、そんなことを思いながら、この34歳になった日々を生きているはずだった。

どっちの時ももう来ないんだってこと、はっきりわかりながら、この34歳になった日々を生きている。

 

人並みの幸せを手に入れて人並みの幸せを幸せだと感じられる、そんな人間になりたいと、そう願っていた。だけど、人並みの幸せを手に入れて人並みの幸せを幸せだと感じられるような人は、それをそもそも「人並み」ではなく、むしろ「自分らしい」幸せだと感じられるんだろうと、そう思った時僕は、人並みの幸せを手に入れることをあきらめるしかなかった。

 

「将来は素敵な家とあと犬がいて

 リフォーム好きの妻にまたせがまれて

 観覧車に乗った娘は靴を脱いで」

かつて、たとえばこんな人並みの幸せの情景に対して「何でここで涙出る」という絶望を歌っていた五十嵐隆は、6年7か月ぶりとなるこの新作でも、人並みの幸せに対して、全面的な敗北を宣言している。あの頃よりずっと強靭になった演奏に乗せて、あの頃とまるで変わらない絶望を歌っている。

 

「君とおんなじように 生きてみたいけど

 君もおんなじように 生きていくのは

 とても大変で」

「何でもないことが出来ない

 当たり前のことが出来ないんだよ」

「心と向き合うなんて 無謀さ

 もともと 勝ち目はないのに

 挑んで またボロボロになってる」

今作を聴く少し前に人並みの幸せを手に入れることに破れた僕には、五十嵐隆の渇望と絶望が、それが良いのか悪いかは知らない、かつてこのバンドを聴いていたあの頃と同じように、いやたぶんそれ以上に、伝わってきてしまう。

 

だけど、今作を聴く直前に「愛なんて嘘」を読んだ僕には、こんなにも渇望し、絶望しながらも、それこそ「死んでいる方がマシさ」とまで言いながらも、それでも死んでいる方を選ばない、生きることを止めない、そんな五十嵐隆の絶望と渇望が、明らかにあの頃以上に、伝わってきてしまう。

「はっきり断言する 人生楽しくない

 だから一瞬だって 繋がっていたいんだ」

「君と居られたのが 嬉しい

 間違いだったけど 嬉しい

 会えないのはちょっと 寂しい

 誰かの君になってもいい 嬉しい」

「君とまた会えるのを 逢えるのを

 待ってる

 残念の中で 落胆の雨でも

 勇敢な姿を 誰かがずっと見ている

 最低の中で 最高は輝く

 もうあり得ないほど 嫌になったら

 逃げ出してしまえばいい」

 

こんなにも絶望して、こんなにも傷つきながら、それでも生きる。こんなにも絶望するのに、こんなにも傷つくのに、それでも一瞬の希望を、一瞬の繋がりを、きっとまた性懲りもなく渇望してしまう。こんな風に生きたいと思っていたわけではなかったし、こんな風に生きたいと思っているわけでもない。だけどもう、こんな風にしか生きられない。そして、こんな風にしか生きてこれなかったけれど、一瞬の希望は、一瞬の繋がりは、その道のりの中にだって、確かに、確かにあった。

 

いつか人並みに大人になっていくんだって、そう思っていた。いつか人並みの大人になっていけるんだって、そう思っていた。

そんないつかは来ないんだって、はっきりわかりながら、生きる。信じられる明日も今は落としたままだけれど、生きる。信じられる明日を落としてしまった時に、信じられた昨日がひとつでも拾えること、それは嬉しいことなんだって、そう思いながら、今日を生きる。

 

最後に再び山崎洋一郎さんが「Meat Is Murder」のライナーでThe Smithsについて語っていた言葉を借りれば、今も、僕はSyrup16gを聴いている。卒業するとか、そういうのはない。Syrup16gは究極の絶望として、屈折として、僕の頭の中のCD棚の一番左に置かれているそしてきっとこれからも、とても切実な思いで聴いていく日が続いていくのだ。

 


syrup16g - 生きているよりマシさ (MV) - YouTube

白石一文 / 愛なんて嘘

 

愛なんて嘘

愛なんて嘘

 

 明日、遅くとも今週中には、Syrup16gのニューアルバムが聴ける。五十嵐隆の新しい歌が聴ける。

2008年の解散時には「勝手に死んでろ」と痛烈な呪詛を吐かれた五十嵐が、少なくない人間に実際に死ぬんじゃないかと思われていた節がある五十嵐が、だけど死ななかった五十嵐が、この世界に向かって再び歌いかけるニューアルバムが聴ける。

ずっと思っていた。こんなにも世界を憎んでいて、こんなにも生きづらそうにしていて、どうして彼は死なないのだろう。

 

人並みの幸せを手に入れて人並みの幸せを幸せだと感じられる、そんな人間になりたいと、そう願っていた。だけど、人並みの幸せを手に入れて人並みの幸せを幸せだと感じられるような人は、それをそもそも「人並み」ではなく、むしろ「自分らしい」幸せだと感じられるんだろうと、そう思った時僕は、人並みの幸せを手に入れることをあきらめるしかなかった。

だけどまだ、僕は「幸せ」をあきらめられない。そしてここで言っている「幸せ」は、「愛」と言い換えることもできる。むしろここで言っている「幸せ」は、「愛」とほぼ同義だ。

オッケー、いい加減に回りくどい言い方はよそう。僕は、愛を手に入れられなかった。愛を届けたいと、そう願っていた人がいた。その人に僕の愛は、届かなかった。

 

「どうして僕は自殺しないのだろう?」

そんな言葉とともに白石一文さんの著作「僕のなかの壊れていない部分」が話題になったのは、もう10年以上も前のことだ。その更に少し前に、村上龍の激賞とともに「一瞬の光」で鮮烈にデビューして以来、白石さんは、全著作をリアルタイムで読んできた数少ない作家の1人だ。上記2作の他にも「私という運命について」「この世の全部を敵に回して」「この胸に深々と突き刺さる矢を抜け」といった多くの傑作を世に問い、今年に入ってからも「彼が通る不思議なコースを私も」で深い思索をもたらしてくれた彼の久々の短編集となる今作で、まさか上記の傑作群が突き刺してきてくれた僕の心の、さらにその深いところまでが抉られることになるだなんて。

 

全6編の短編からなる今作は、どれも近年の白石作品が期待させる一定の品質を見事にクリアしているんだけど、中でも「二人のプール」が、僕の中では突出して素晴らしい、と言うより正確に、正直に言えば、凄まじい。一度離婚して、それぞれに別のパートナーを得たその後に、もう一度二人で、最期は二人で添い遂げる、そんな約束をした、一対の男と女の姿が描かれている。

 

希望と絶望が眼前に広がった時、安易に希望の方を選ばない、時には希望でも絶望でもない第3の道を見つけていく登場人物(これを山崎洋一郎さんがレディオヘッドを引き合いに出して激賞していたのも「一瞬の光」の頃の話だ)の姿自体は、これまでの白石作品に親しんできた読者であれば、ある程度は予想できるとしてもだ。今作の、その行動を選ぶに至る思索の深さ・鋭さ・精緻さは、今までの作品でさえ既に比肩するものはなかったレベルだというのに、それらをさらに凌駕している。

 

「高志と暮らしていると、自分の人生に十分に満足している人間がこの世界に存在するという嘘のような現実を日々思い知らされる。堅実な家庭で成長し、名の 通った大学に入り、一級建築士という真面目に努めれば一生食べるのに困らない資格を得、妻をめとり、可愛い一人娘を精一杯慈しむ――すべてが世界中のあちこちで無数の誰かがやっていることの焼き直しに過ぎないような、自分が自分であることの理由を何一つ見出せないような人生でありながら、何の不足も不満も感じずに平気な顔で生きて行ける人間。私にはそういう高志の存在がまったく理解できなかった。」

「この子も凡庸な父親と同様に、与えられたほどほどの人生にしがみつき、上手に順応し、自らを取り巻く社会や世界を善きものとみなして闊達に生きていくのかと想像するとまったくうんざりしてしまう。」

 

一体どれだけの絶望を通過してこれば、このような世界の見方ができるようになるのだろう。こんなにも絶望に満ち溢れた世界で、それでも生きようと願うことができるのは、どうしてなんだろう。

 

それこそ、「どうして彼女は自殺しないのだろう?」

 

その答えをここで書くようなことはここではできないけれど、こんなにも絶望に満ちた世界で、それでも生きようと願う理由を、主人公は、主人公の中でしか通じない理由だとしても、しっかりと持っている。そこに至る思索の深さ・鋭さ・精緻さに、やはり僕の心は刺され、抉られる。

 

白石作品が最終的に「人生を読み解く」ことをその目的のひとつとしていることは、これも白石作品に親しんできた読者であれば首肯してくれることと思う。そして今作はそのタイトルにもある通り、「愛」を中心に、人生が、徹底的に、容赦なく読み解かれている。今まで僕が愛だと思っていたそれは、本当に愛だったのか。他者に向けていたと思っていた愛は、本当に他者に向いていたのか。愛を手に入れられなかった僕は、その読み解きのひとつひとつに心を刺されているような痛みをおぼえながら、それでも頁をめくる手を止めることができなかった。

この世界には、こうやって痛みをおぼえながらしか読み進められない小説があり、こうやって痛みをおぼえながら小説を読み進めるような、そんな生き方しかできない人間がいる。僕の他にも、たくさんいる。

そして、そんな生き方しかできないとしても、それでも愛は、本当の愛は、信ずるに値するものだと、今作を通して、白石さんはそう言っている。間違いなく、そう言っている。

 

明日、遅くとも明後日には、Syrup16gのニューアルバムが聴ける。五十嵐隆の新しい歌が聴ける。

どうして彼は死ななかったのだろう。その答えも、その答えが聴けるかどうかも、聴いてみないとわからない。

けれど。

こんなにも世界を憎んでいても、こんなにも生きづらそうにしていても、それでも死なないでいることに、それでも生きていることに、少しだけかも知れないけれど、思いを巡らせられるようにはなった気がする。

Coldplay / Ghost Stories

 

ゴースト・ストーリーズ

ゴースト・ストーリーズ

 

The Wild, The Innocent & The E Street Shuffle」が「青春の叫び」に。「Tonight's The Night」が「今宵その夜」に。「Blood On The Tracks」が「血の轍」に。

「洋楽」を日本で聴いていると、時に出会うのが、この「邦題」ってやつで。僕の頭にパッと浮かんだ上記3つなんかは、英文法はできても英会話にはまるで自信のない、そんなレベルの英語を学んでいただけの田舎の中高生に、その音楽が持つ魅力を、ある意味では原題以上に伝えていたと思う。

僕の頭にパッと浮かんだ上記3つのアルバムはすべて1970年代の作品で、邦題のレベルはこの頃が1番高かったんじゃないかなと思う。80年代、90年代に発売された邦題のついた洋楽アルバムにもいくつか出会ったけど、これだ! というようなシックリくるそれに出会った記憶はあまりなくて(「オアシス」よりも「Definitely Maybe」でしょ、「石と薔薇」も悪くないけど、「The Stone Roses」でいいじゃん、「Mother's Milk」、わざわざ訳す必要あった?)、2000年代、リバティーンズの2枚の傑作アルバムに邦題をつけた人を、僕は決して許さない。

 

セカンドアルバム「A Rush of Blood to the Head」でオルタナティヴ・ロックとして、前作「Mylo Xyloto」でポップ・アルバムとして、これまでのキャリアで2つの頂に立ってきた(粉川しのさんことしのたんによる国内盤ライナーノーツを参照)、そんなコールドプレイの新作は、前作が特に印象に残らなかった僕としては、こっちは割と好きだったセカンドに並ぶレベルの作品かどうかはさておき、間違いなく、セカンド以上に「静寂の世界」な、そんな作品だ。

 

特にここ2作くらいのコールドプレイ、歌詞カードを読んでみても何を歌っているのかわからないし何を歌いたいのかもわからないんだけど、とにかく異常にシリアスさが前面に押し出されている感じがして、そのシリアスの押し出し方ってのが異常に装飾過多に聴こえるアレンジに象徴されていた気がして、それが心底嫌ってわけでもないけどそれが心の琴線に触れるかって言われたらそれはまあ間違いなくなくて、メロディ自体は割と好きなだけに残念といえば残念だなっていう感じだったんだけど、今作はそんな過去2作への反動もあるのか、クリス・マーティンさんの個人的事情もあるのか、抑えたアレンジに乗せて、失ってしまった恋人への郷愁が歌われ続ける。その痛みは、3曲目「Ink」のサビあたりで早くも絶頂を迎えて、まあこの曲が1番好きなんだけど、ああ徹頭徹尾この曲調で貫くつもりなのかなと思っていると、ラスト前の8曲目「A Sky Full of Stars」で、一気に爆ぜる。曲調自体は前作に収録されていてもおかしくないような感じなんだけど歌詞は今作のモードで、だからなのか、そこまで浮いては聴こえない。むしろ良い。スマッシング・パンプキンズ(というかビリー・コーガン)がドラマーを失った後に制作して、静謐すぎて全然売れなくて解散の一因になった、そんなアルバム「アドア」の、ランニングタイム70分くらいの内の60分くらいが経過したくらいの曲で、ようやくビリーの溢れる激情が聴こえてきた、そんな瞬間のことを、少し思い出したりもした。

 

再びライナーノーツを引用すると、しのたんは本作を「非常にコンセプチュアルな、情感をストイックに抑制したアルバム」と評していて、1年前のスウェード復活作に於いてはしのたんの作品評に完全脱帽した僕だけど、今作に於いては若干異を唱えたい。頭の中で浮かべたのか実生活から湧いてきてしまったのかはともかくコンセプチュアルというか統一性は間違いなくあるし、アレンジはストイックに抑制されているけれど、少なくとも、クリス・マーティンさんの情感は、ぜんぜん抑制されていない。ゴシップネタになるのが嫌だから今作に伴うインタヴューは一切受けない、みたいな記事をどこかで読んだけど、そこまで突っ込まれるだろうことが予想されながら、溢れる胸の痛みをここまで延々と歌詞にしてしまっている時点で既にそうだし、メロディ自体も抑えめではあるけれど、それによって引き立てられるヴォーカル自体には、情念を感じないではいられない。フロントマンとしての凄味は、その実生活を容易に想像させる歌詞によって、抑制どころかむしろ増幅しているように、少なくとも僕にはそう聴こえる。

 

頭に血がのぼった結果として静寂の世界に行ってしまうような、クリス・マーティンは、そんな人間ではないようだ。失ってしまった恋人への悲痛な思いを切々と延々と歌い続ける作品を「幽霊の話」と名付けてしまうクリス・マーティンの視界に今、必要最小限以外の人間は、果たして映っているのだろうか。クリス・マーティンは今こそ、そんな世界があるとすればだけど、「静寂の世界」にいるのではないだろうか。